シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

オリンピックは絶対に観ない

COVID-19感染者数が見事に指数関数的増加を遂げておりますが、今日からオリンピックの競技が開始されてますね。私はオリンピック開催に反対ですし、そして、今後オリンピックなるものを観ることはないでしょう。もともとあまりオリンピックに興味がある方ではなかったのですが、今回の一連の事態はハッキリと嫌いに追いやりました。

「まあ、いくら反対しても実際に競技も始まったし、仕方ないから観戦して応援するか。」という意見の人も多いとは思います。しかし、私はそれを受け入れません。

その考えを受け入れる、というのは、政権の「強引に押し切ってしまえば、どうとでもなるし、そのうちに忘れる」という考えを助長するものだからです。断固としてオリンピックには反対し、人を舐めきった政権にNOを突き付けるつもりです。

さて、菅らがこれほどオリンピックに固執するのか、その理由の一端が、先日Eテレの100分de名著で紹介されたレイ・ブラッドベリの「華氏451度」にありました。

 

「(前略)みなに、もっと、もっと、スポーツをやらせる必要がある。あれこそ、団体精神のあらわれであり、人生の興味の中心である。あれをやっていれば、ものを考えることがなくなる。そうじゃないか。(後略)」

「(前略)これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめから、そんな工作はなにひとつしなかった!(後略)」

「(前略)むかし戦争なんてものがあったが、そんなことは忘れさせてしまう。政府が無能で、指導者ばかりやたらに多くて、税金をとり立てるのに熱中しなければならんにしても、それを国民にとやかくいわせてはいかん。とにかく、平穏無事がなにより大切だ。(後略)」

 焚書官署長 ビーティの言葉(強調はシートン
華氏451度 レイ・ブラッドベリ 宇野利泰訳 ハヤカワ文庫

 

この本は書籍を禁じられた世界の話、というだけではありません。知性を自ら放棄していく社会と、それに抗う人々の話なのです。

オリンピックにどう向き合うか、それはその人が何者であるかを示すことになるでしょう。

では。

 

 

take a stand!

オリンピックの賛否を巡って様々な意見が交わされるようになりましたね。私は当然オリンピックに反対です。

 

さて、少し前に話題となった池江璃花子ツイッター発言ですが、私が興味を抱いたのは「私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません」の部分です。

 

「選手個人に当てるのはとても苦しい」。池江璃花子さん、東京オリンピック辞退を求める一部の声に胸中を明かす
https://www.huffingtonpost.jp/entry/tokyo_jp_6095e0a8e4b0aead1b83d4b7

 

さて、彼女は本当に「何も変えることができ」ないのでしょうか?

少し、過去を振り返ってみましょう。1968年のメキシコオリンピックのことです。当時、ベトナム反戦運動に加え、黒人差別に抗議する動きが活発でした。キング牧師マルコムXのような運動指導者が暗殺され、共和党大統領候補ニクソンが「法と秩序」という言葉で、運動とその参加者を暴動・暴徒として印象付けようとした時代*1です。

アメリカの陸上競技代表トミー・スミスとジョン・カーロスは抗議運動への共感を公言していました。しかし、IOCアメリカ選手団指導者らはそれらの動きを「オリンピック憲章に反する政治的行為」とみなし、競技時にアピールすることを掣肘していました。競技中のアピールは世界中への波及効果があるからです。
しかし、再三の警告にも関わらず、スミスとカーロスは100 200m走で1位と3位を獲得し、そして表彰台に上がると、黒い革手袋を一つずつ嵌め、拳を突き上げました。ブラックパワー・サリュートと呼ばれる、運動への共感をアピールする行為です。二人はオリンピック憲章に反した、としてメダルをはく奪、オリンピックの場から追放になり、そればかりかその後の参加資格も失いました。
二人の名誉が回復されたのは、つい最近のことです*2
しかし、私がここで言及したいのは、この二人だけでなく、2位であったピーター・ノーマンです。

 

ノーマンはオーストラリアの陸上選手で、見事2位を獲得します。そして、スミス達が表彰台でのアピールに及ぼうとしていることを知った彼はスミス達にこう呼びかけます。
「(運動を象徴する)「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」バッジをくれないか?」
そして、彼は運動に共感を示している、という証であるバッジを付け、スミス達と共に表彰台に立ったのです。あからさまではないにせよ共感を示すアピールでした。

ノーマンの行為は白豪主義が色濃く残るオーストラリアで問題視され、彼は結局その後オーストラリアの陸上界で干されることになります。しかし、彼から陸上競技を奪う事になった“あの行為”を悔いた事は無い、と生涯語っていました。

2005年、カリフォルニア州立大学サンノゼ校にスミスらのブラックパワー・サリュートを記念した銅像が造られました。しかし、そこにはノーマンの像はありません。
ノーマンは評価されなかったのでしょうか?そうではありません。ノーマンは像が造られる際、自分の像を置かず、ある言葉を刻むよう求めていました。その言葉とはこうです。
「ピーター・ノーマンは 共に立った どうかあなたも ここに立ってほしい」
差別を無くすこととは“ここに立って”始まります。現在のBLMに連なるムーブメントにおいて、多くの人がノーマンのように“ここに立って”きました。

アスリートもまた同じです。
「競技に力をいれるべきであって、政治的な意見はいかがなものか」というような考えが、特に日本では色濃く伺えます。
しかし、アスリートも市民であり、民主主義を支える一人です。それに対して政治的な発言をさせない、または中立であることを望む、というのはどういうことを意味するのか。それは、現状を否定するな、という極めて政治的な態度なのです。
なので、その国の政権は国威発揚や政権支持の手段としてスポーツやアスリートを利用します。
一番良い例が旧共産圏でしょう。国ぐるみのドーピング等の不正まで用いたスポーツは自国の力を内外に示すと共に、選手はアイコンとなり統治の手段として使われました。

日本も旧共産圏ほどではない?にせよ、国威発揚と国民統合、政権支持手段としてスポーツを用いてきました。未だにそれを利用しようというのが、今回の東京オリンピックの遠因でしたが、その目論見は無残に崩れつつあります。

日本のスポーツ選手*3は、その育成環境もあって、極めて保守的で権威に服従することが内面化しています。引退後に政界入りする多くが自民党であるのもその現れです。橋本聖子を始めとして、その手腕では無く“客寄せパンダ”(全国的知名度による集票の目玉)として振舞います。
古くは小野清子ら、そして今のままなら池江璃花子もそれに連なるのでしょう。

ですが、世界的に見ればアスリートが政治的態度を明確にすることは珍しくなくなりました。
大坂なおみはBLMに共感していることをコートの上でも表明しています。それは、むしろアスリートの誇りともなっている。自分の影響力の大きさを自覚し、世界的な問題解決に取り組むよう訴える彼女は「なにもできない」存在などでは到底ありません。

かつては、アスリートは政治的アピールによって逐われました。現在も政治的アピールを良しとしない人々もいますが、圧倒的な支持が寄せられることにより状況は変わりつつあるのです。

池江璃花子が「なにもできない」とは、私は思いません。積極的にオリンピック開催を推す意志を示した、と考えるべきです。ではなく、本当に「なにもできない」と考えているのであれば、そんなことはない、と伝えましょう。
彼女は出来るし、自分の意思をハッキリと示すべきなのです。

最後に改めてノーマンの言葉を。

「誰もがこの場所にのぼって、そこで自分たちが信じるもののために立つことができるんだ」

では。


参考:
◎「映像の世紀」が示した人種差別とのたたかい(トヨタで生きる)
http://toyotaroudousya.blog.fc2.com/blog-entry-3655.html

 

「take a stand」1968年10月17日、メキシコ五輪
https://note.com/booksplug/n/n2bd576016e64

 

20. 白人選手のブラックパワー・サリュート【オリンピックの歴史を知る】(笹川スポーツ財団
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic/20.html

  

敬称を略しました。

 

追記:エントリーを修正しました。 100m → 200m

TIKUWA_USHIさん、ありがとうございます。

*1:これは、後にトランプにも利用されました

*2:大会では女性アスリートもアピールしていましたが、ほとんど扱われませんでした。現在にも続く、差別解消の動きに反する女性差別でもあります 歴史に埋もれた人類初記録 女だから?称賛も注目もなく https://www.asahi.com/articles/ASP2S6GRWP23UHBI00V.html

*3:彼らはアスリートではなく、“選手”と呼ぶのがふさわしい

憲法変えるほどなら、政権変える方が先でしょ

緊急事態条項や「改憲4項目」実現を 首相がメッセージ

https://www.asahi.com/articles/ASP535S6SP53UTFK009.html

菅義偉首相は憲法記念日の3日、改憲派の集会に自民党総裁としてビデオメッセージを寄せた。新型コロナウイルスの感染拡大に触れ、大災害などの時に内閣が国民の権利を一時的に制限する「緊急事態条項」に関し、「極めて重く大切な課題」と語った。その上で、同条項や、憲法9条への自衛隊明記を含む自民党改憲4項目」の実現をめざす考えを示した。

憲法変えなきゃCOVID-19感染対策が出来ないようなら、さっさと政権の座から下りてください。
出来る人に座を譲るのが先です。


この集会には安倍晋三氏も首相当時にメッセージを寄せており、菅首相も同じ形をとった。首相は「現行憲法も制定から70年余り経過し、時代にそぐわない部分、不足している部分は改正していくべきではないか」と述べた。

自民党は結党以来ずっと現行憲法に対して「時代にそぐわない」と云っているので、取り合う必要はありません。
特に、このクソ野郎にしゃべる場を与える必要あります?
では。

本家より有名になったスピンオフ作品

本家より有名になったスピンオフ作品

https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/43048.html

 

銀河英雄伝説

 

銀河英雄伝説ON THE WEB

 

――『銀河英雄伝説』を書くきっかけは、どんなことだったのですか?

 子供の頃からいろいろ読んでいた“スペースオペラ”を、そのうち自分でも書いてみたいと漠然と思っていました。1978年に、雑誌『幻影城』(株式会社幻影城 1975~1979年)の新人賞を頂いたときに、『幻影城』育ちの作家たちを何人か集めて、長篇の書き下ろし競作をするという企画がありました。そのときに、僕は“スペースオペラ”をやってみないかと言われて、念願がかなったわけです。『銀河のチェスゲーム』というタイトルを考えて、その物語の時点に至るまでの何百年かの架空の銀河系の歴史を書きました。その中に、過去のエピソードのひとつとして、ラインハルトとヤン・ウェンリーの2人が対立して・・・、という話があったんです。そして、全体で100枚程書いた頃に、多くの人がご存じかと思いますが、『幻影城』が休刊になってしまいまして・・・(笑)。その原稿はそのままになってしまいました。その後、本当に偶然から徳間書店の編集者に声をかけて頂いたのです。そのときに、もう3年ぐらい前に書いたままになっている長篇があることを思い出して、お見せしました。そうしたら、本篇よりもむしろ、それに先立つ銀河系史、概略のようなものの方が面白いから、そちらを歴史小説風に書いてみましょう、ということになったのです。実は僕も、最初に書いたときに、結構そこに力を入れて書いていたので愛着があって、自分でもいっそこちらの話をやってみようと思ったんです。そうして、タイトルも決めないままに書き始めたのが、『銀河英雄伝説』ということになります。

 

https://www.ginei.jp/interview1.htm

なぜ、好きになれないのか

非モテ、について書いたが、それは、自身も非モテだから。結婚もしてないし。
私、結婚しないんじゃなくて、結婚できない。だから、自分にとっても悩みではある、しかし、女性にミソジニー募らせるようなことはしたくない。で、前エントリーを書いた。

女友達はいる。普通に二人で呑みに行ったりする相手。中には既婚者もいる。もちろんセックスは抜き。不倫扱いされることはしない。そして20代、30代、40代、50代までいる。だから、女性と普通に会話は出来るし、友達付き合いは出来る。でも、決定的にモテない。告白すると、気まずそうに断られる。なんで、好きになって貰えないのだろう。自分には何が足りないのだろう。何が噛み合わないのか。
自分はアウトドアでの遊びが好きだから、バーベキューに誘ったりもする。女友達が子供を連れて参加する。で、夫の愚痴になる。
「ホント、何にもしないのに、休みの日ぐらい子供を外へ連れてって、って頼んでも無視されるし。」
「へー、何してるの?」
「ゲーム。」
「ありゃ」
「今日もバーベキューだし、一緒に行く?って聞いたのに、家にいるっていうし。」
「そうなんだ。あまりアウトドアとか好きじゃないのかな?知らない人もいるのが良くないのか。」
「違う違う。子供と遊んでもくれないし。家のことを手伝うでもないし。」
「…」
「ねー、人間が小さいから。ほんと、たまにはシートンみたいに子供の相手してくれたらいいのに。」

知らんがな。何でオレに夫の愚痴を云う?そもそも、そんな夫を選んだのは貴方でしょうに。
大体、アンタ、オレのこと、ふったことを忘れてるだろ!

結婚しないとあちこちからクレームが付く。先輩に云われた言葉。
「結婚しないってのは、社会的に許されないことだから。家庭を持って一人前。出来ないのは人間としておかしい。」
社会の片隅でひっそりと生きているだけなのに、public enemy 扱い。ほっといて欲しいなぁ。別に結婚したくないんじゃないんだよ。出来ないだけ。

「オマエはえり好みしすぎなんだよ!」
そりゃ、選びますよ。ダメなんですか?自分が好きになれる人と一緒に生きていきたい、ってのは。結婚て、それにつきるんじゃないの?それ以外に何かあるの?
「そんなことだから、少子化が…」
(再び)知らんがな。オレにそんなものおっかぶせるなよ。
今までオレが払ったご祝儀、たぶん3ケタに乗ってるよ。返ってくることはあるのかな?結婚していない、というだけで社会的制裁に近いものがおっ被らせられる。それでなお、こんなことを云われにゃならんのかね。

自分が気まずくふられるように、自分も好きになってくれた人を断ることがある。
弱者男性に女をあてがえ、話に感じる違和感がここにある。アンタは自分に〝あてがわれた”女性を好きになれるの?抽選で廻ってくる相手が綾瀬はるかさんと勘違いしてない?
自分が受け入れられない、というのは、自分が受け入れられない、ことがある、ということでもある。
なぜ好きになってもらえないのか、は寂しいが、なぜ好きになれないのか、は悲しい。
想ってくれた人のやさしさを噛みしめながら、受け入れられない自分の冷たさを憎む。自分がふられた時に見る顔を自分もしているんだろうか。
パートナーを見つけた人は、見つけてもらった人はいいね。貴方がたがうらやましくて眩しくてしょうがない。どこにも自分の居場所があるとは感じられない。
それでも、世界の片隅で哀を呟くノケモノはトボトボと生き続けるしかないのだった。
では。

「非モテ」が女性に「キモい」と思われるのは、女性差別が原因

昨今、非モテだの弱者男性だのがフェミニズムと絡めて語られることが多いようですね。
ちょっと、気になる話なので、久々に述べさせていただきます。
さて、非モテ*1、と称する人たちが嘆くのが、女性にぞんざいに扱われること、のようです。
誉めたら「キモい」と云われた、だの、相手にされない、だのですね。
で、なぜかそれをフェミニズムに責をなするケースを良く目立ちます。
しかしですね、「非モテ」が女性に「キモい」と思われるのは、女性差別が原因なのです。
どういうことか、説明していきます。

女性差別の現れ方として一般的なのが、女性をモノ扱いする、というのがあります。で、モノ扱いすると、そこに“ランキング”が適用されます。つまり、美醜の基準を当て嵌め、序列を付けるわけですね。“イイ女”は「カワイイ顔して、オッパイがでかくて垂れておらず、ウェストがキュッとくびれて脚はスッと伸びて足首が締まっている。太ったり痩せ過ぎていたりしない。」みたいな感じですね。そしてその基準からの距離で女性は“値踏み”されてきたわけです。もちろん、男に対して“わきまえない”なんてとんでもない!男のわがままを受け入れて、優しく包んでくれるような態度、が求められるのです。“美女”であっても、“わきまえない”女はランクが落ちてしまいます。男の欲望に対して都合のよい女、モノとしての女が“良い”とされる、それが女性差別が当たり前にある社会の規範です。
では、そのランキングを内面化した女性にとって、男はどう位置づけられるのか?今度は、男の序列も決まってくるわけです。
スポーツカーに乗れるのは選ばれたドライバーであるように、“特上”の女に釣り合うのも、“ステータスの高い”男となります。従って、男の方のランキングも、その美醜や社会的ステータスによって決まってくる。そして、自分の“モノ”としての価値を心得た(女性差別を内面化した)女性は、自分の値踏みとして、釣り合う男の格付けを行なうようになります。
一番判りやすい例が、銀座のクラブでしょう。そこは露骨なまでの序列が敷かれ、男も女も序列をいかに上げるか、に汲々とする。くだらないように見えますが、当人たちは、それこそが自分の“価値”を示すものだ、と真剣に考えているのです。
さて、これを非モテの扱われ方に当て嵌めてみましょうか。
非モテは、(女性差別を内面化した)女性にとってはランキングが低位の存在であり、対等に接することは自分の価値をそこに“下げる”ことにほかなりません。
例えば、外見を誉める、というのは、モノに価値を付けることですから、“非モテ”ごときに自分の価値を判断される、と感じるわけです。当然、イヤな顔をするに決まっています。誉められて嬉しいのは、(値踏みされる女性自身が)ランキングが高いと感じる男性なのです。
もちろん、告白なんてとんでもない!それを受け入れるのは、自分の価値を下げることになります。
釣り合う男を捜す、出来れば、自分から見て高いランキングの男に選ばれたい!
鼻持ちならないように思いますか?でも、これは、女性差別、女性をモノ扱いすることによる、当然の結果なのです。男が女をモノ扱いするなら、女も自分を“所有する”男を選ぶのです。
果てしない格付けの果てに得るものがあるのか、弾かれたものに安らぎはあるのか。
そのモノ扱いにNO!を突き付けるのがフェミニズムなら、フェミニズムは男性に対する値踏みにもNO!というのです。相手をモノ扱いしない、勝手なランキングで判断しない、人としてどうか、で相手を見ること。そこでは、“非モテ”が理不尽な扱いをされることもありません。
もちろん、自分が人を好きになって相手が好きになってくれるか、が上手くいくとは限りません。しかし、女性をモノ扱いしなくなれば、キモい奴扱いはされなくなるでしょう。めげずに自分に合う相手を捜すことも出来るようになると思いますよ。非モテにとって、フェミニズムは自身を救う考えでもあるのです。
では。

*1:ここでは、ヘテロ男性に絞ります