シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

黙って大人しく死んでくれ 解答編

以前、10年以上前のことですが、こんなエントリーを上げました。

 

黙って大人しく死んでくれ
https://dr-seton.hatenablog.com/entry/20090319/1237474460


静岡県内をはじめとして、リーマンショック時の人員整理で在日ブラジル人の失業が相次いだことに対して、知人が漏らした“治安への懸念”に対する違和感について述べたものです。日本社会の弱者に対する冷淡さを批判して、最後をこうまとめました。

声を上げよう。訴えよう。「生きさせろ!」と叫ぼう。それに共感しよう。
でなければ、キミもどっか人目に付かぬところで、「黙って大人しく死んでくれ」と願われることになるよ。

 

残念ながら、この“予言”は当たってしまったようです。

事実上の「医療放棄」にも関わらず「自宅療養」と呼ぶことのグロテスクさは、「撤退」を「転進」、「敗戦」を「終戦」と言い換えるメンタリティに通じるものがありますが、それ以上に「自宅療養」の実態、そして、その背景があまりに怖ろしい。


もともと、オリンピックを強引に開催するにあたり、このような感染爆発が生じることは、多くの人によって予想されていました。尾身会長の言葉の変遷からも伺えます。
それほどの状況でありながら、強引に事を運んだわけですから、当然ながら感染爆発が生じた際の対処方針を立てるべきであったはずです。いわゆる、Bプラン。
よく「予想外」という言葉が使われますけど、「予想外」の事態に対する迅速な対処方針こそが要求されるのです。それでなければ、そもそも行政能力として疑問符が付きます。
結局のところ、菅首相小池都知事も、相次ぐ懸念に対して一向に応えず、空念仏のようなセリフを繰り返してオリンピック開催に突き進んだにもかかわらず、それに伴う「非常事態」の対処方針を定めていなかったわけです。
それに対する強烈な皮肉が語られましたね。

 

政府「頼むからお盆の帰省は止めて下さい」

国民1「中止の考えはない。強い警戒感を持って帰省に臨む」
国民2「バブル方式で帰省する。感染拡大の恐れはないと認識している」
国民3「帰省を中止することは一番簡単なこと、楽なことだ。帰省に挑戦するのが国民の役割だ」
国民4「安心安全な帰省に向けて全力で取り組む」
国民5「コロナに打ち勝った証として帰省する」
国民6「(帰省は)今更やめられないという結論になった」
国民7「『帰省するな』ではなく、『どうやったら帰省できるか』を皆さんで考えて、どうにかできるようにしてほしいと思います」
国民8「もしこの状況で帰省がなくなってしまったら、大げさに言ったら死ぬかもしれない。それくらい喪失感が大きい。それだけ命かけて帰省する為に僕だけじゃなく帰省を目指す国民はやってきている」
国民9「家族に感動を与えたい。帰省はコロナ禍収束の希望の光」
国民10「我々は帰省の力を信じて今までやってきたた。別の地平から見てきた言葉をそのまま言ってもなかなか通じづらいのではないか」
国民11「(帰省中止要請は)自主的な研究の成果の発表ということだと思う。そういう形で受け止めさせていただく」
国民12「言葉が過ぎる。帰省中止を決める立場にない」
国民13「帰省が感染拡大につながったエビデンスはない。中止の選択肢はない」
国民14「(帰省について)政府は反発するだろうが、時間が経てば忘れるだろう」
国民15「帰省することで、緊急事態宣言下でも帰省できるということを世界に示したい」
国民16「帰省について限定的、統一的な定義は困難」
国民17「実家を訪問するという認識。帰省するという認識ではない」

 
あまりに無能無策。そして、再三、感染者増加に対応した緊急病棟の設置等の提言を受けながら、この国の為政者(政権も多くの首長らも)は適切な対応が出来ていません。

そして、溢れる感染者を目のつかないところへ「放置」することを、「自宅療養」と呼ぶわけです。こうすれば感染者増加は不可視化されます。実態を伴うものではなく、単なる数字にしかならなくなってしまう。
日本社会では、目に付かなくすれば、問題は先送りしても構わない、と考えがちです。

 

自宅療養中の死者数、厚労省「把握していない」
https://www.asahi.com/articles/ASP8B6S34P8BUTFK01K.html

 

前掲エントリーで述べた「在留外国人」もそう、(ホームレス対策としての)排除アート(オブジェ)もそう、そして、とうとう“我々”にもその矛先が向けられた、ということですね。感染増加に歯止めが掛からない、というか掛ける施策がない状況で、出来ることは「自衛」のみ。なんのための政府なのか。電通パソナに中抜きさせて、おこぼれに預かるためのものなのか。

 

再度、繰り返します。

 

声を上げよう。訴えよう。「生きさせろ!」と叫ぼう。それに共感しよう。
でなければ、キミもどっか人目に付かぬところで、「黙って大人しく死んでくれ」と願われることになるよ。

 

では。

死んでくれてありがとう

私からの提案です。COVID-19によって亡くなられた方々を靖国神社に合祀しましょう。
なにせ、お国がオリンピックを無事開催するために亡くなられた、尊い犠牲者なのですから。
そして、オリンピックでメダルを獲得された選手方もぜひコメントを。
「皆様が尊い命を捧げてくださったおかげで、メダルが取れました。死んでくださってありがとうございます!」
「犠牲を払ってくださった方々の思いを無駄にしないために、今後もオリンピックに出場し、メダルが取れるよう頑張ります!」
など、ぬけぬけと述べてください。
あなた方は夥しい人々の命を踏みつけにして、自らの夢を叶えたのです。徹底的にクソッタレとして振舞ってください。
良心があるとか、善人のふりなどしないようお願い申し上げます。
では。

オリンピックは誰のもの?

先日、昼食で街中のネパール料理店に入りました。最初に入ろうとした店は潰れていました。先月までは開いていたのですが。さて、客は私だけだったのですが、店内のテレビではオリンピックをやっておりました。オリンピックは見るつもりもなかったのですが、店員たちも眼をやる様子もない。そのうち、私以外の客、おそらくネパール女性2人が入ってきました。店員たちと会話を始めましたが、やはりテレビに目をやることはありませんでした。
誰も目をやらないテレビからアナウンサーの絶叫が聞こえる、というシュールな状況に、ふと考えることがありました。
この店の店員たちをはじめとする在留外国人*1にとって、東京オリンピック、は何なのだろう。彼らは、このオリンピックだらけのテレビを見ることはあるのだろうか。そもそも、見て楽しめるのだろうか。
在留外国人の人口は、約290万人(2021年3月末時点)だそうです。すでに人口の約5%に達します。

 

令和2年末現在における在留外国人数について
http://www.moj.go.jp/isa/publications/press/13_00014.html

 

それほど彼らの存在を必要としながら、しかし、その存在割合に比べると不思議なくらい不可視化されています。彼らを社会の成員として認める様子もありません。彼らの存在など視野にない、というのは、オリンピック番組にも現れています。それは、スポーツの素晴らしさを見せるものではなく、ただただ、“スゴイ日本(日本人選手)!”を称揚するだけになっているわけですから。日本人選手の出ない(もしくは上位成績が狙えない)競技は無視されています。そこにスポーツを楽しむ様子など見えません。アスリートや競技の魅力を中心にしたら、在留外国人にとっても楽しめるものになるでしょう。しかし、ひたすら日本人選手の応援、に過ぎないとしたら、彼らの興味を引くことは出来ないでしょう。
IOCは「多様性の尊重」を掲げ、そして、開会式(私は見ませんでしたが)では「多様性」の押し売り状況にあったと聞きます。なのに、テレビ報道はベーシックな多様性、多国籍の人々、への配慮など微塵ほども考えなかった、というわけです。いかにも日本らしい光景です。
今回のオリンピックは今まで糊塗してきた内実を見せ付けるものとなりました。これでも、オリンピックはやってよかった、で終わるのでしょうかね。それは誰にとってよかった、のでしょうか。
本当にオリンピックは誰のためのものなのか。

オリンピックが始まる前のことではありますが、安倍前総理が、「オリンピック開催を支持しない奴は反日」というようなことを述べたことが話題となりました。逆にオリンピック開催を支持する人は親日?ということなのでしょう。

 

安倍前首相「五輪に反対する人は反日的」またまたトンデモ主張
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/291434

 

そして、オリンピックの開催期間中に自民党の河村議員から「選手の活躍で自民党の支持が上がる」ような意見が堂々と述べられました。結構、スゴイ話ですが、ベタ扱いでした。

 

選手の活躍「政権に力」 自民・河村氏「五輪なければ不満は政権へ」
https://mainichi.jp/articles/20210731/k00/00m/010/281000c

 

自らの支持を固めるためにオリンピックを開催した、ということであり、つまるところ招致・運営に掛かる莫大な費用は、自民党の支持固めのためだった、という告白でしょうか。オリンピックというものを媒介として、彼らの本音が見えたのは良かったのか悪かったのか。

それでも、なお「ともかくも開催してしまったからには、感染観戦応援しなくちゃ」なのでしょうか。私には理解できません。
では。

*1:「ガイジン」とか「外国人」という云い方は嫌いだが、ここではそう称することにする

オリンピックは絶対に観ない

COVID-19感染者数が見事に指数関数的増加を遂げておりますが、今日からオリンピックの競技が開始されてますね。私はオリンピック開催に反対ですし、そして、今後オリンピックなるものを観ることはないでしょう。もともとあまりオリンピックに興味がある方ではなかったのですが、今回の一連の事態はハッキリと嫌いに追いやりました。

「まあ、いくら反対しても実際に競技も始まったし、仕方ないから観戦して応援するか。」という意見の人も多いとは思います。しかし、私はそれを受け入れません。

その考えを受け入れる、というのは、政権の「強引に押し切ってしまえば、どうとでもなるし、そのうちに忘れる」という考えを助長するものだからです。断固としてオリンピックには反対し、人を舐めきった政権にNOを突き付けるつもりです。

さて、菅らがこれほどオリンピックに固執するのか、その理由の一端が、先日Eテレの100分de名著で紹介されたレイ・ブラッドベリの「華氏451度」にありました。

 

「(前略)みなに、もっと、もっと、スポーツをやらせる必要がある。あれこそ、団体精神のあらわれであり、人生の興味の中心である。あれをやっていれば、ものを考えることがなくなる。そうじゃないか。(後略)」

「(前略)これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめから、そんな工作はなにひとつしなかった!(後略)」

「(前略)むかし戦争なんてものがあったが、そんなことは忘れさせてしまう。政府が無能で、指導者ばかりやたらに多くて、税金をとり立てるのに熱中しなければならんにしても、それを国民にとやかくいわせてはいかん。とにかく、平穏無事がなにより大切だ。(後略)」

 焚書官署長 ビーティの言葉(強調はシートン
華氏451度 レイ・ブラッドベリ 宇野利泰訳 ハヤカワ文庫

 

この本は書籍を禁じられた世界の話、というだけではありません。知性を自ら放棄していく社会と、それに抗う人々の話なのです。

オリンピックにどう向き合うか、それはその人が何者であるかを示すことになるでしょう。

では。

 

 

take a stand!

オリンピックの賛否を巡って様々な意見が交わされるようになりましたね。私は当然オリンピックに反対です。

 

さて、少し前に話題となった池江璃花子ツイッター発言ですが、私が興味を抱いたのは「私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません」の部分です。

 

「選手個人に当てるのはとても苦しい」。池江璃花子さん、東京オリンピック辞退を求める一部の声に胸中を明かす
https://www.huffingtonpost.jp/entry/tokyo_jp_6095e0a8e4b0aead1b83d4b7

 

さて、彼女は本当に「何も変えることができ」ないのでしょうか?

少し、過去を振り返ってみましょう。1968年のメキシコオリンピックのことです。当時、ベトナム反戦運動に加え、黒人差別に抗議する動きが活発でした。キング牧師マルコムXのような運動指導者が暗殺され、共和党大統領候補ニクソンが「法と秩序」という言葉で、運動とその参加者を暴動・暴徒として印象付けようとした時代*1です。

アメリカの陸上競技代表トミー・スミスとジョン・カーロスは抗議運動への共感を公言していました。しかし、IOCアメリカ選手団指導者らはそれらの動きを「オリンピック憲章に反する政治的行為」とみなし、競技時にアピールすることを掣肘していました。競技中のアピールは世界中への波及効果があるからです。
しかし、再三の警告にも関わらず、スミスとカーロスは100 200m走で1位と3位を獲得し、そして表彰台に上がると、黒い革手袋を一つずつ嵌め、拳を突き上げました。ブラックパワー・サリュートと呼ばれる、運動への共感をアピールする行為です。二人はオリンピック憲章に反した、としてメダルをはく奪、オリンピックの場から追放になり、そればかりかその後の参加資格も失いました。
二人の名誉が回復されたのは、つい最近のことです*2
しかし、私がここで言及したいのは、この二人だけでなく、2位であったピーター・ノーマンです。

 

ノーマンはオーストラリアの陸上選手で、見事2位を獲得します。そして、スミス達が表彰台でのアピールに及ぼうとしていることを知った彼はスミス達にこう呼びかけます。
「(運動を象徴する)「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」バッジをくれないか?」
そして、彼は運動に共感を示している、という証であるバッジを付け、スミス達と共に表彰台に立ったのです。あからさまではないにせよ共感を示すアピールでした。

ノーマンの行為は白豪主義が色濃く残るオーストラリアで問題視され、彼は結局その後オーストラリアの陸上界で干されることになります。しかし、彼から陸上競技を奪う事になった“あの行為”を悔いた事は無い、と生涯語っていました。

2005年、カリフォルニア州立大学サンノゼ校にスミスらのブラックパワー・サリュートを記念した銅像が造られました。しかし、そこにはノーマンの像はありません。
ノーマンは評価されなかったのでしょうか?そうではありません。ノーマンは像が造られる際、自分の像を置かず、ある言葉を刻むよう求めていました。その言葉とはこうです。
「ピーター・ノーマンは 共に立った どうかあなたも ここに立ってほしい」
差別を無くすこととは“ここに立って”始まります。現在のBLMに連なるムーブメントにおいて、多くの人がノーマンのように“ここに立って”きました。

アスリートもまた同じです。
「競技に力をいれるべきであって、政治的な意見はいかがなものか」というような考えが、特に日本では色濃く伺えます。
しかし、アスリートも市民であり、民主主義を支える一人です。それに対して政治的な発言をさせない、または中立であることを望む、というのはどういうことを意味するのか。それは、現状を否定するな、という極めて政治的な態度なのです。
なので、その国の政権は国威発揚や政権支持の手段としてスポーツやアスリートを利用します。
一番良い例が旧共産圏でしょう。国ぐるみのドーピング等の不正まで用いたスポーツは自国の力を内外に示すと共に、選手はアイコンとなり統治の手段として使われました。

日本も旧共産圏ほどではない?にせよ、国威発揚と国民統合、政権支持手段としてスポーツを用いてきました。未だにそれを利用しようというのが、今回の東京オリンピックの遠因でしたが、その目論見は無残に崩れつつあります。

日本のスポーツ選手*3は、その育成環境もあって、極めて保守的で権威に服従することが内面化しています。引退後に政界入りする多くが自民党であるのもその現れです。橋本聖子を始めとして、その手腕では無く“客寄せパンダ”(全国的知名度による集票の目玉)として振舞います。
古くは小野清子ら、そして今のままなら池江璃花子もそれに連なるのでしょう。

ですが、世界的に見ればアスリートが政治的態度を明確にすることは珍しくなくなりました。
大坂なおみはBLMに共感していることをコートの上でも表明しています。それは、むしろアスリートの誇りともなっている。自分の影響力の大きさを自覚し、世界的な問題解決に取り組むよう訴える彼女は「なにもできない」存在などでは到底ありません。

かつては、アスリートは政治的アピールによって逐われました。現在も政治的アピールを良しとしない人々もいますが、圧倒的な支持が寄せられることにより状況は変わりつつあるのです。

池江璃花子が「なにもできない」とは、私は思いません。積極的にオリンピック開催を推す意志を示した、と考えるべきです。ではなく、本当に「なにもできない」と考えているのであれば、そんなことはない、と伝えましょう。
彼女は出来るし、自分の意思をハッキリと示すべきなのです。

最後に改めてノーマンの言葉を。

「誰もがこの場所にのぼって、そこで自分たちが信じるもののために立つことができるんだ」

では。


参考:
◎「映像の世紀」が示した人種差別とのたたかい(トヨタで生きる)
http://toyotaroudousya.blog.fc2.com/blog-entry-3655.html

 

「take a stand」1968年10月17日、メキシコ五輪
https://note.com/booksplug/n/n2bd576016e64

 

20. 白人選手のブラックパワー・サリュート【オリンピックの歴史を知る】(笹川スポーツ財団
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic/20.html

  

敬称を略しました。

 

追記:エントリーを修正しました。 100m → 200m

TIKUWA_USHIさん、ありがとうございます。

*1:これは、後にトランプにも利用されました

*2:大会では女性アスリートもアピールしていましたが、ほとんど扱われませんでした。現在にも続く、差別解消の動きに反する女性差別でもあります 歴史に埋もれた人類初記録 女だから?称賛も注目もなく https://www.asahi.com/articles/ASP2S6GRWP23UHBI00V.html

*3:彼らはアスリートではなく、“選手”と呼ぶのがふさわしい

憲法変えるほどなら、政権変える方が先でしょ

緊急事態条項や「改憲4項目」実現を 首相がメッセージ

https://www.asahi.com/articles/ASP535S6SP53UTFK009.html

菅義偉首相は憲法記念日の3日、改憲派の集会に自民党総裁としてビデオメッセージを寄せた。新型コロナウイルスの感染拡大に触れ、大災害などの時に内閣が国民の権利を一時的に制限する「緊急事態条項」に関し、「極めて重く大切な課題」と語った。その上で、同条項や、憲法9条への自衛隊明記を含む自民党改憲4項目」の実現をめざす考えを示した。

憲法変えなきゃCOVID-19感染対策が出来ないようなら、さっさと政権の座から下りてください。
出来る人に座を譲るのが先です。


この集会には安倍晋三氏も首相当時にメッセージを寄せており、菅首相も同じ形をとった。首相は「現行憲法も制定から70年余り経過し、時代にそぐわない部分、不足している部分は改正していくべきではないか」と述べた。

自民党は結党以来ずっと現行憲法に対して「時代にそぐわない」と云っているので、取り合う必要はありません。
特に、このクソ野郎にしゃべる場を与える必要あります?
では。