シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

人は”しょうがない”が三割

昨今、外出もままならず、宅飲みの酒量ばかりが増えておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

さて、私にとって割とナゾな話として、底堅い内閣支持率があります。前安倍政権時もそうですが、大体3割ほどの支持が続いている。

 

内閣支持率34%横ばい、コロナ対策「評価せず」64%
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA264PM0W1A820C2000000/

 

日本経済新聞社テレビ東京は27~29日に世論調査を実施した。菅義偉内閣の支持率は34%で7月の前回調査から横ばいだった。2020年9月の政権発足後の最低水準が続く。新型コロナウイルスの全国的な感染拡大が響いたとみられる。


どれほどヒドくグダグダな政策であっても、支持する人々。おそらく安倍-菅で一貫して支持している人々だと想像します。「三割の人々」ってどうして支持できるんだろうか?支持理由も含めて理解に苦しむ。何がゆえに支持できるのか判らないのですが、周囲でも支持するという人にあったことが無かったので、その心理状態が理解できませんでした。それが、知人との会話で手掛かりとなる(かもしれない)知見を得たのです。

その知人との会話では、大体皆そうだとは思うのですが、昨今のコロナ禍が話題にのぼりました。で、なかなか接種出来ないワクチンや、増える一方の感染者、閉店を迫られる飲食店などについて話し、オリパラに話が及びます。

 

シートン(以下、シ)「オリパラねぇ、こんな時に開催やめてほしいもんだね」
知人(以下、チ)「まあ、今さらやめられないでしょ」
シ「でも、これで感染者増えるのは必至だし」
チ「それもしょうがないんじゃない?」
シ「え、でも、感染者が増えると、医療リソースがヤバくなるから死者も増えるでしょ」
チ「増えるよね」
シ「いやいや、増えてもらっちゃ困るでしょ。せめて、検査と隔離施設を充実させるとか、ロックダウンしないと」
チ「そんなこと無理でしょ」
シ「無理って、他国もやっている方法じゃん」
チ「他の国は大ざっぱだから。日本は丁寧だから、あんな風にはできない」
シ「大ざっぱって、」
チ「それに検査はあてにならないっていうじゃない。間違うことが多いらしいよ」
シ「えー、そんなことはないでしょ。PCRの原理からいって*1
チ「PCRは判んないけど、そうらしいよ。それに、検査なんてそんなに増やせないでしょ」
シ「いや、中国なんか凄い数の検査こなしているけど」
チ「あの国は信用できないから。いくらでも嘘をつくでしょ」

 

愕然とします。どこから入れた情報に基づいているのか判りませんが、他国への蔑視を隠そうともしない。例としては中国だけでは無いのですが、私は先日中国企業とオンラインでやりとりしたところだったので、その時の経験を話しました。

 

シ「この間、やりとりした(中国)企業では誰もマスクしてなかったし、普通に生活している、って言ってたけど」
チ「だから、中国企業なんて、いくらでもごまかすでしょ。あてにはならないよ」
そして、こう続けました。
チ「政府は良くやっていると思うよ。これ以上、どうしようもないでしょ」

 

これ以上、会話をする気もなくなり、話を適当に打ち切りました。
この認識がどうやって生まれるのか判りませんが、しかし、彼の中では政府対応は“こんなもの”であるようでした。まだ、ワクチンも打てていない状況なのに。民間のPCR検査が高額なのを嘆いているのに。テレワークを増やせ、と云われてどうしたらいいのか頭がイタいとぼやいているのに。

現状が限界、と思うのなら、確かに政府の対応はこんなもの。満足とまではいかなくても不満というほどではない。他国の対応を知らなければ、ですが。そこに目をやらないのであれば、こう考えるのもいたし方ないでしょう。

彼が「三割の人々」であるかは判りません。しかし、「三割の人々」が他国を蔑視し、その対応を冷笑して自分の認識の範囲を狭め、現状を“こんなもの”“しょうがない”と受け入れる人々である可能性は高いと思います。

どんな怪談よりも怖く感じた体験でした。
では。

*1:私は物性/材料屋なので生化学に詳しくはないが、原理ぐらいは知っている

三体みたいかどうかは微妙だが

美少女JCお嬢様ですが三体みたいなSFを教えてほしいですわ(追記あり
https://anond.hatelabo.jp/20210817222242

 

虫けらと呼ばれて喜ぶオッサンから、こんなのはいかがか?

・夜の大海の中で グレゴリイ・ベンフォード 

銀河を舞台とする機械生命体と有機生命体の永遠とも思える抗争を描いたシリーズ第一作。三体(未読)のあらすじを見て、このシリーズを思い出した。


・サンダイバー デイヴィッド・ブリン

 銀河全域の知性種族の「知性化」(支配/従属)をめぐる一大シリーズの第一作。二作目の「スタータイド・ライジング」の方が世界観が判りやすいかも。


・造物主の掟 ジェイムズ P.ホーガン

みんな大好き「星を継ぐもの」の作者による傑作SF。 正直なところ、「星を継ぐもの」より面白いと思う。


コロナ疲れのおり、本を読み返すのもいいね。
では。

黙って大人しく死んでくれ 解答編

以前、10年以上前のことですが、こんなエントリーを上げました。

 

黙って大人しく死んでくれ
https://dr-seton.hatenablog.com/entry/20090319/1237474460


静岡県内をはじめとして、リーマンショック時の人員整理で在日ブラジル人の失業が相次いだことに対して、知人が漏らした“治安への懸念”に対する違和感について述べたものです。日本社会の弱者に対する冷淡さを批判して、最後をこうまとめました。

声を上げよう。訴えよう。「生きさせろ!」と叫ぼう。それに共感しよう。
でなければ、キミもどっか人目に付かぬところで、「黙って大人しく死んでくれ」と願われることになるよ。

 

残念ながら、この“予言”は当たってしまったようです。

事実上の「医療放棄」にも関わらず「自宅療養」と呼ぶことのグロテスクさは、「撤退」を「転進」、「敗戦」を「終戦」と言い換えるメンタリティに通じるものがありますが、それ以上に「自宅療養」の実態、そして、その背景があまりに怖ろしい。


もともと、オリンピックを強引に開催するにあたり、このような感染爆発が生じることは、多くの人によって予想されていました。尾身会長の言葉の変遷からも伺えます。
それほどの状況でありながら、強引に事を運んだわけですから、当然ながら感染爆発が生じた際の対処方針を立てるべきであったはずです。いわゆる、Bプラン。
よく「予想外」という言葉が使われますけど、「予想外」の事態に対する迅速な対処方針こそが要求されるのです。それでなければ、そもそも行政能力として疑問符が付きます。
結局のところ、菅首相小池都知事も、相次ぐ懸念に対して一向に応えず、空念仏のようなセリフを繰り返してオリンピック開催に突き進んだにもかかわらず、それに伴う「非常事態」の対処方針を定めていなかったわけです。
それに対する強烈な皮肉が語られましたね。

 

政府「頼むからお盆の帰省は止めて下さい」

国民1「中止の考えはない。強い警戒感を持って帰省に臨む」
国民2「バブル方式で帰省する。感染拡大の恐れはないと認識している」
国民3「帰省を中止することは一番簡単なこと、楽なことだ。帰省に挑戦するのが国民の役割だ」
国民4「安心安全な帰省に向けて全力で取り組む」
国民5「コロナに打ち勝った証として帰省する」
国民6「(帰省は)今更やめられないという結論になった」
国民7「『帰省するな』ではなく、『どうやったら帰省できるか』を皆さんで考えて、どうにかできるようにしてほしいと思います」
国民8「もしこの状況で帰省がなくなってしまったら、大げさに言ったら死ぬかもしれない。それくらい喪失感が大きい。それだけ命かけて帰省する為に僕だけじゃなく帰省を目指す国民はやってきている」
国民9「家族に感動を与えたい。帰省はコロナ禍収束の希望の光」
国民10「我々は帰省の力を信じて今までやってきたた。別の地平から見てきた言葉をそのまま言ってもなかなか通じづらいのではないか」
国民11「(帰省中止要請は)自主的な研究の成果の発表ということだと思う。そういう形で受け止めさせていただく」
国民12「言葉が過ぎる。帰省中止を決める立場にない」
国民13「帰省が感染拡大につながったエビデンスはない。中止の選択肢はない」
国民14「(帰省について)政府は反発するだろうが、時間が経てば忘れるだろう」
国民15「帰省することで、緊急事態宣言下でも帰省できるということを世界に示したい」
国民16「帰省について限定的、統一的な定義は困難」
国民17「実家を訪問するという認識。帰省するという認識ではない」

 
あまりに無能無策。そして、再三、感染者増加に対応した緊急病棟の設置等の提言を受けながら、この国の為政者(政権も多くの首長らも)は適切な対応が出来ていません。

そして、溢れる感染者を目のつかないところへ「放置」することを、「自宅療養」と呼ぶわけです。こうすれば感染者増加は不可視化されます。実態を伴うものではなく、単なる数字にしかならなくなってしまう。
日本社会では、目に付かなくすれば、問題は先送りしても構わない、と考えがちです。

 

自宅療養中の死者数、厚労省「把握していない」
https://www.asahi.com/articles/ASP8B6S34P8BUTFK01K.html

 

前掲エントリーで述べた「在留外国人」もそう、(ホームレス対策としての)排除アート(オブジェ)もそう、そして、とうとう“我々”にもその矛先が向けられた、ということですね。感染増加に歯止めが掛からない、というか掛ける施策がない状況で、出来ることは「自衛」のみ。なんのための政府なのか。電通パソナに中抜きさせて、おこぼれに預かるためのものなのか。

 

再度、繰り返します。

 

声を上げよう。訴えよう。「生きさせろ!」と叫ぼう。それに共感しよう。
でなければ、キミもどっか人目に付かぬところで、「黙って大人しく死んでくれ」と願われることになるよ。

 

では。

死んでくれてありがとう

私からの提案です。COVID-19によって亡くなられた方々を靖国神社に合祀しましょう。
なにせ、お国がオリンピックを無事開催するために亡くなられた、尊い犠牲者なのですから。
そして、オリンピックでメダルを獲得された選手方もぜひコメントを。
「皆様が尊い命を捧げてくださったおかげで、メダルが取れました。死んでくださってありがとうございます!」
「犠牲を払ってくださった方々の思いを無駄にしないために、今後もオリンピックに出場し、メダルが取れるよう頑張ります!」
など、ぬけぬけと述べてください。
あなた方は夥しい人々の命を踏みつけにして、自らの夢を叶えたのです。徹底的にクソッタレとして振舞ってください。
良心があるとか、善人のふりなどしないようお願い申し上げます。
では。

オリンピックは誰のもの?

先日、昼食で街中のネパール料理店に入りました。最初に入ろうとした店は潰れていました。先月までは開いていたのですが。さて、客は私だけだったのですが、店内のテレビではオリンピックをやっておりました。オリンピックは見るつもりもなかったのですが、店員たちも眼をやる様子もない。そのうち、私以外の客、おそらくネパール女性2人が入ってきました。店員たちと会話を始めましたが、やはりテレビに目をやることはありませんでした。
誰も目をやらないテレビからアナウンサーの絶叫が聞こえる、というシュールな状況に、ふと考えることがありました。
この店の店員たちをはじめとする在留外国人*1にとって、東京オリンピック、は何なのだろう。彼らは、このオリンピックだらけのテレビを見ることはあるのだろうか。そもそも、見て楽しめるのだろうか。
在留外国人の人口は、約290万人(2021年3月末時点)だそうです。すでに人口の約5%に達します。

 

令和2年末現在における在留外国人数について
http://www.moj.go.jp/isa/publications/press/13_00014.html

 

それほど彼らの存在を必要としながら、しかし、その存在割合に比べると不思議なくらい不可視化されています。彼らを社会の成員として認める様子もありません。彼らの存在など視野にない、というのは、オリンピック番組にも現れています。それは、スポーツの素晴らしさを見せるものではなく、ただただ、“スゴイ日本(日本人選手)!”を称揚するだけになっているわけですから。日本人選手の出ない(もしくは上位成績が狙えない)競技は無視されています。そこにスポーツを楽しむ様子など見えません。アスリートや競技の魅力を中心にしたら、在留外国人にとっても楽しめるものになるでしょう。しかし、ひたすら日本人選手の応援、に過ぎないとしたら、彼らの興味を引くことは出来ないでしょう。
IOCは「多様性の尊重」を掲げ、そして、開会式(私は見ませんでしたが)では「多様性」の押し売り状況にあったと聞きます。なのに、テレビ報道はベーシックな多様性、多国籍の人々、への配慮など微塵ほども考えなかった、というわけです。いかにも日本らしい光景です。
今回のオリンピックは今まで糊塗してきた内実を見せ付けるものとなりました。これでも、オリンピックはやってよかった、で終わるのでしょうかね。それは誰にとってよかった、のでしょうか。
本当にオリンピックは誰のためのものなのか。

オリンピックが始まる前のことではありますが、安倍前総理が、「オリンピック開催を支持しない奴は反日」というようなことを述べたことが話題となりました。逆にオリンピック開催を支持する人は親日?ということなのでしょう。

 

安倍前首相「五輪に反対する人は反日的」またまたトンデモ主張
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/291434

 

そして、オリンピックの開催期間中に自民党の河村議員から「選手の活躍で自民党の支持が上がる」ような意見が堂々と述べられました。結構、スゴイ話ですが、ベタ扱いでした。

 

選手の活躍「政権に力」 自民・河村氏「五輪なければ不満は政権へ」
https://mainichi.jp/articles/20210731/k00/00m/010/281000c

 

自らの支持を固めるためにオリンピックを開催した、ということであり、つまるところ招致・運営に掛かる莫大な費用は、自民党の支持固めのためだった、という告白でしょうか。オリンピックというものを媒介として、彼らの本音が見えたのは良かったのか悪かったのか。

それでも、なお「ともかくも開催してしまったからには、感染観戦応援しなくちゃ」なのでしょうか。私には理解できません。
では。

*1:「ガイジン」とか「外国人」という云い方は嫌いだが、ここではそう称することにする

オリンピックは絶対に観ない

COVID-19感染者数が見事に指数関数的増加を遂げておりますが、今日からオリンピックの競技が開始されてますね。私はオリンピック開催に反対ですし、そして、今後オリンピックなるものを観ることはないでしょう。もともとあまりオリンピックに興味がある方ではなかったのですが、今回の一連の事態はハッキリと嫌いに追いやりました。

「まあ、いくら反対しても実際に競技も始まったし、仕方ないから観戦して応援するか。」という意見の人も多いとは思います。しかし、私はそれを受け入れません。

その考えを受け入れる、というのは、政権の「強引に押し切ってしまえば、どうとでもなるし、そのうちに忘れる」という考えを助長するものだからです。断固としてオリンピックには反対し、人を舐めきった政権にNOを突き付けるつもりです。

さて、菅らがこれほどオリンピックに固執するのか、その理由の一端が、先日Eテレの100分de名著で紹介されたレイ・ブラッドベリの「華氏451度」にありました。

 

「(前略)みなに、もっと、もっと、スポーツをやらせる必要がある。あれこそ、団体精神のあらわれであり、人生の興味の中心である。あれをやっていれば、ものを考えることがなくなる。そうじゃないか。(後略)」

「(前略)これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめから、そんな工作はなにひとつしなかった!(後略)」

「(前略)むかし戦争なんてものがあったが、そんなことは忘れさせてしまう。政府が無能で、指導者ばかりやたらに多くて、税金をとり立てるのに熱中しなければならんにしても、それを国民にとやかくいわせてはいかん。とにかく、平穏無事がなにより大切だ。(後略)」

 焚書官署長 ビーティの言葉(強調はシートン
華氏451度 レイ・ブラッドベリ 宇野利泰訳 ハヤカワ文庫

 

この本は書籍を禁じられた世界の話、というだけではありません。知性を自ら放棄していく社会と、それに抗う人々の話なのです。

オリンピックにどう向き合うか、それはその人が何者であるかを示すことになるでしょう。

では。