シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

靖国問題 その2

よく見かける言葉が気に掛かる。
「今ある平和は、(大戦で)戦死した方々のおかげ。」
これって、おかしくないか?


もともと、米英と戦争を始めた原因は、ハルノートに代表される対日要求が「到底呑める内容じゃ無かった」ため、というのが、右な方々の言説である。客観的にはともかく、当時の日本中枢がそう考えて戦争を起こしたのは間違いない。その戦争で勝って自分たちの要求を押し通すことが出来たのなら「今ある平和は、戦死した方々のおかげ。」と言っても良いかもしれない。
だが、現実はそうではない。戦争でこてんぱんにやられ、無条件降伏した結果が現在の日本の源流になっているわけだ。今ある平和、とはそこにあるのだ。
つまり、到底呑める条件ではなかったはず、の状態より、(彼等的には)さらに悪い状態のはずである。「今ある平和」とは。だったら、最初から条件呑んでおけよ、と考えるのが普通ではないか?

戦争やってもやらなくても結果が同じなら、やらない方がマシで、やったために生じた戦没者はまさに”犬死に”である。
戦争の悲劇とはまさにそこにあるのであって、夥しい戦没者はまったくの無駄死にだった。どんなに飾ろうとも、言葉を費やそうとも、感傷的になろうとも、死に対して価値など付けようもない。
まったくの無駄死にだった、などと考えるのが辛いというのは、遺族感情としてあり得るだろう。だが、まったくの無駄死にを大量に出してしまった、事を正面から受け止めて次に生かす事こそ、戦没者に対する一番の供養では無いかな。
というわけで、戦没者は無駄死にだった、という視点に立たない、追悼などというのは自慰行為にすぎないように思うのだが、如何だろう。