凄いよ!公人さん。
現実主義に目覚めよ、日本! グローバル・スタンダードの罠に陥るな
第45回
天皇に伝わるヒメの仕事、ヒコの仕事
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/p/45/
凄いぞ!日下公人。アホな話に歯止めが効かない。読んでいてクラクラするコラムに逐次突っ込みを入れていこう。もちろん、自分は日本史の専門家でもなんでもない。でも、これは酷すぎるだろう。
突っ込みの結果、コラムのかなりを引用してしまったが、許してください。
まず、コラムは上田篤さん、という方の本の紹介からはじまる。建築から民俗学へのめり込んでいった方、との事で、まず「と」アンテナが「と」を感知しはじめる。
で、上田さん、天皇を戴く前の時代「前天皇制」なる時代が一万年前に遡れる、と説くのだそうだ。
一応、天皇制がどう遡っても2000年以上前には存在しない事は確かでしょう。
でも、普通、二分化して「天皇制」「前天皇制」とかって分けませんよね。普通はもっと違う区分が適用されると思うんですが。
その本でわたしが理解したことをいくつか紹介する。まず、日本列島に人間が入ってきたのは約1万年前。そのときは大陸と陸続きで、ナウマン象などの巨大動物を狩猟して生活していた人が、象と一緒にだんだん日本に入ってきた。
そのときの男たちはもちろん狩りをしていた。女たちは、三角形のとんがり屋根の縄文式住宅に住んで、火をおこして料理をしたり、土器を作っていた。
えー、縄文時代は1万年余に及ぶんで、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と分かれます。どういった建築に住んでいたかは、時代にも土地にもよるはずなんですが。ずいぶん、単純な時代区分ですよね。ていうか、必要なの?その話。
男のほうは、荒っぽい狩りに行って、踏みつぶされたりしてよく死んだ。だから結局、伝統を継いでいくのは女性である。男は出かけていくとしょっちゅう死んでしまう。そういう生活だった。
縄文全期の平均寿命が短かったのは確かですが、このころは寿命の男女差がそんなにあったんでしょうか。一番死の可能性が高かったのは乳幼児ですし、女性は出産時のリスクが大きかったですから。
伝統を継ぐ、というか、母系制であったことは確かなようですが、男がしょっちゅう死ぬからではなかったと思います。
この「海民」という言葉は、ここ10年くらいで日本中で有名になった。故・網野善彦さん(日本中世史研究家)が、「日本中が百姓だと思ったら大間違いだ。それは百姓たちが書いた日本史である。その他に日本の浜辺には水産業の人がたくさん住んでいて、彼らに名前をつければ海民である。海の民というのがいた」と言ったのが始まりだろう。
実は、この突っ込みを入れようと思った契機がこの一文。網野氏を尊敬していて、著作を読み漁っている自分にとって、これはちょっと酷いと思えたのです。
網野氏の言葉をねじ曲げるにもほどがあります。網野氏が主張したのは「百姓とは、百の姓で、農民だけでなく、(海民を含めた)様々な職業の人を指す言葉だ」ということ。農民というか、農本主義的な歴代政権*1によって、描かれてきた歴史像に対して、その他の職業の人たちからみた「日本の歴史像」がある、というのが「網野史観」と呼ばれるもの。特に、漂泊民、後に賎民視される人々を捉え直して歴史的な再評価を行ったことが優れている。とりわけ伝統的な支配体系に含まれないマージナルな人々の変遷をきちんと調査し、歴史家の認識変化を迫ったという点を自分は尊敬している。
「網野史観」に基づいた時代作家として、故隆慶一郎氏がいるが、ダイナミックで俯瞰的な人物の捉え方が好きだ。これは、司馬遼太郎の、権力者を主として描き鳥瞰的な人物評価を下す「司馬史観」と対照的。隆氏の早世は本当に惜しまれる。
閑話休題。
つまり、この段階で日下氏の「海民」への認識は大間違い。だから、続いても酷いもの。
農民は海民を下に見ていたから、結婚しなかった。農民の中から武士が出てきて政権を立てると、「海民は農地を持ってはいけない。海辺の狭いところに住んで水産業に専念せよ」という規制をした。
海民はマージナルな存在でした。海や川で繋がる場所が彼等の生存圏です。それは、漂泊の民や芸能者、職人、商人とも相通じるところがあり。農民ともハッキリと仕切られていたわけではなく、農本的な支配権力の外側に位置していました。それがゆえに、江戸期になると、承認という形を経て支配体系に組み込まれていきますが、農民との対立関係にあったわけではありません。
徳川 250年間の藩閥時代でも、年貢を取る大名が偉くて、払う百姓が偉くて、その他の商工業や水産業の人はきちんと税金を納めないから、地位が低かった。
網野氏がハッキリと否定したのが、この点。網野氏は能登の「時国家」が「水呑み百姓」でありながら、同時に商船を何隻も所有する大商家であった事を見いだしています。つまり、支配体系の外で、広範な商業活動や交流が行われていたことを示しているのです。地位と云うのは、支配体系に属する話、その外に世界があったよ、と述べるのに、地位の高低を持ち出しても仕方がない。
日本中を旅行すると、こうした歴史が一目瞭然で分かる。海辺の、山が海へ突っ込むようなところの谷間に20軒、30軒と固まって人が住んでいる。家と家との間の道が通れないくらい狭い。これは海民の村である。
海辺の村は、伊豆などでもよくあり、「陸の孤島」などといわれ現在では僻地の扱いです。だが、江戸期を通じて、水運が輸送のほとんどを占めていたことを考えると、「交通の要衝」だったのですよ。風待ち湊が多かったんです。「道がない」のではなく、「海を通じてどこへでも行ける」土地でした。
海民は、集まって水辺に住んで、そこに定住した。移動して狩りをする狩猟民ではなく、同じ場所に定住した。海民にとって一番簡単なのは、アサリやハマグリを採ること。だから、大森貝塚などの貝塚が出来た。
大森貝塚の時代に海民と農民という発想はありません。ついでに、海民は頻繁に移動を行います。
沖縄へ行くと、今もそういう巫女がいる。神様のお告げを聞く超能力があるというおばあさんがいる。その人のことを「のる」という。
これは、自分の知る限りでは「ユタ」と呼んだはず。これに関しては、自分も違っているかもしれない。
縄文時代のころの日本の社会制度は、ヒメヒコ制という。
縄文期の社会制度など、考古学的に知られていません。推測はもちろんありますが、断定できるほどではないです。
その時代の結婚はどうなっていたか。妻問い婚、つまり夜這いであった。
(中略)
そのころヒコは何をしていたかというと、軍事的・政治的に成功すると豪族の娘をどんどん愛人にしていた。
(略)
その後の時代の豊臣秀吉も、「おまえの娘を人質に出せ」と言った。「娘を人質にとれば裏切らないだろう」という習慣が昔からあって、天皇も至るところの娘さんをかき集めてきて、自分の家に置いていた。
そして、子どもが出来ると、不思議なことに、その女性と息子を一緒に実家に帰してしまった。だから、天皇には家族がなかった。天皇はいつも一人でいた。(略)
母系制度について無知としか云えないです。妻問い婚と夜這いは、正確には異なるし。その点はいいとして、母系社会の基本は、家長は妻(母)の側にある、ということ。従って、男が結婚しても、子供は男の家系ではなく、女の家系に属します。通い婚があったのなら、”豪族の娘をどんどん愛人にしていた。”というのではなく、”豪族が大王をどんどん婿にしていった”と云うのが正しい。もちろん、妻も子供も妻の実家側なのは当然。
ただし、天皇制を見る限り、古来からの母系ではなく、大陸由来の父系であったようです。
もちろん、秀吉の頃とはまったく状況も異なります。秀吉の頃(戦国期)には武家は父系でした*2。
ところが、2000年前あたりに戦争の時代がきた。まず国内統一をしなければいけないから、天皇は逆らう豪族を征伐して歩いた。日本武尊(やまとたけるのみこと)の話はその一つである。
時代がやたら跳ぶので、繋がりがさっぱり判らない。
それが終わったころ、今度は中国の中で大陸動乱が起こる。そうすると難民が来るし、統一が完了すると、強くなった中国が日本へ攻め込んでくる。そこで、都を急いで奈良からもっと安全なところへ移さなければいけない。北九州や瀬戸内海で迎撃しなければいけない。
それが終わったころの大陸動乱、っていつの事なんでしょうね。2000年前なら後漢朝誕生期の事か、でもそうすると統一が完了した中国が日本へ攻め込んでくる、というのがわからない。これって、唐・新羅の事か?700年も違うではないの。奈良から移動って云うのもわからない。時代認識がめちゃめちゃである。
侵略に対する防衛をする時代になって、男は兵隊になった。外敵に対する軍事力を持たなければいけないので、もうヒメの言うことを聞いていられない。戦争は男の仕事で敵は男の集団だから予知能力は男のほうが優れている。そこでヒコがヒメになってヒコとヒメの両方をやる。そういうことになって、これをミカドと称することになる。
えー、唐・新羅の事を云っているなら、戦ったのは朝鮮半島の白村江*3なんですが。もちろん、当時の国の領域を現在に当てはめるのはおかしいとは認識してますけど、侵略に対する防衛ってのはどうでしょうかね。
ミカドは、ヒメとヒコの仕事を両方やる。それが、2000年前か1500年前あたりに起こった転換だった。
500年も間を開けないでください。
その後の天皇の仕事は、歌を詠むこと、儀式をすること、お祭りをすることであって、軍事力は完全に手放してしまった。
その後、ってはいつを指しているんでしょう。鎌倉期以降ならその通りですけど、それは自発的意志では無いでしょう。
つまり、天皇というのは、戦争がくれば男性的になるが、なくなるとすぐ女性的になってしまう存在といえる。
まあ、大人げない突っ込みですが、攻撃性を「男性的」、そうでないのを「女性的」と呼ぶのはどうかと。神功皇后のエピソードを知らないわけじゃないでしょう。
欧米的なメガネで見て、日本は男尊女卑の国だとか、軍国主義の国だとか、まだ古代の清算ができていない国だとかを簡単に言ってはいけないのである。また、天皇は男系男子に限るのかの議論も、ヒメヒコ制にまでさかのぼれば消滅する。天皇制では男系男子に限るとしても、前天皇制のほうに日本人一般の心は残っていると思われる。
欧米的なメガネで見て、などと簡単に言ってはいけませんね。だいたい、軍国主義化している国、ならともかく、軍国主義の国って誰が言ってるんです?「過去の清算」ならともかく、古代の清算ってなんの話でしょう。
著者の上田篤さんがこんなヘンな事を主張しているのかは知りません。読む気もないし。でも、網野史観のデタラメな解釈を見ると、日下氏の脳内上田氏の説なのかもしれません。
日経よ。いいかげん、キチンと編集した方が良くないか?
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