てれびのスキマ - 太田光が青臭い正論を吐く理由
http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/20061224#p1
太田は、漫才ブーム以前は青春ドラマに感動していた、と語り、しかしビートたけしが出現し、それは綺麗事だとつっこんだ。そして彼は「世の中は綺麗事じゃなくて、熱血の青春ドラマの世界じゃないんだ、っていうことを教えてくれて僕らは開眼した」という。しかし、今の子供はその綺麗事を知らずに最初から本音しか知らない。だから危険なんだという。
「そこからもっと追求していけばいいのに、知恵の入り口って凄く危険なんですよ。たけしさんがやったことは逆説なんだってことを気がつかないと、それをそのまま受け入れちゃうと、それで良いんだと思っちゃうじゃない?」と。
これは僕が常日頃、抱く思いと、全く持って共通する。
この世界に入ってから、俺より下の世代の芸人のたけしイズムの解釈が“嘲笑”でしかないことを何度も戸惑ったし、ビートたけしの逆説が分らない若者の多さには本気で呆れている。
それはサブカルチャー論にも共通する。
いつの間にか、サブがメインにあり、カウンターで発言すべきサブカルチャーが正論の如く流通している。
昨今の太田光が、実にお笑いにあるまじき、まともな正論をぶつ論客となっているのも、本来のメインカルチャーの方が脆弱すぎて、立ち居地としては、正論をぶつ方が、むしろ異端であり、カウンターであるからだろう。
(上記blogに引用された水道橋博士の言葉)
この言葉、どっかで見たことあるな、と思ったら、大塚英志の著作で頻繁に出てくる話じゃなかったかな。「大きな物語」が解体したと思ったら、ベタな逆説が順接で捉えられてしまう、って話。
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パロディーやアイロニーは、物語批判の道具として利用されてきたはずなのに、パロディーやそのメソッド自体が、新たな、より陳腐な物語になっている、というところか。
今、自分の中では、太田光と大塚英志がダブって見える。