シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

ダーウィンの悪夢

あちこちで取り上げられてた「ダーウィンの悪夢」が、ようやく静岡でもシネ・ギャラリーで公開されたので見てきた。客入りは、普段のシネギャラと比べても5分の入り、というところ。静岡では環境問題に関する関心が薄いのが気になってはいたのだが。
映画は、アフリカ最大にしてナイル川の源であるビクトリア湖を描いたもの。多様な生き物が棲むゆえに「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていたが、かつて誰かが(おそらくヨーロッパ人だろう)軽はずみに放したナイルパーチが他の魚を駆逐して繁殖した事から様相が一変する。あちこちの感想から感じたほどには、声高な環境保護反グローバリゼーションは感じられない。ナイルパーチを捕る漁師、そのナイルパーチを加工する水産加工工場、加工されたナイルパーチを世界の市場に運ぶパイロット達、ナイルパーチのもたらす富を目指してビクトリア湖周辺に集まってくる女性や子供達。それがもたらす圧倒的な貧困とHIV。カメラが捉える光景は淡々としているが、しかしとてつもなく重い。ナイルパーチの切り身は日本でも売られているが、それを食べるのを止めたとしても状況が改善するわけではない。むしろ、彼等の生活の糧が失われるだけだ。かといって、放っておく訳にもいかない。いかにするか?見る人の想像力が試されているのだ。登場する人々も既に個人の力ではどうにも留められない流れの中にある。
ナイルパーチを運ぶのは、ロシア人パイロット達だが彼等は安く引き受けるゆえに雇われている。おそらくは武器の密輸が行われているだろうが、彼等には選択の余地がない。知らぬものとして扱わなければ生活のすべを失うだけだ。それでも、最後に武器の密輸を行ったことをポツンと漏らす。彼に出来ることはそれだけ。後は、スクリーンのこちら側の為すべき事だ。ああ、大変ね、で済まさないためにはどうしたらいいか。アフリカの貧しい現実、などと考えず、自分たちの身に引き受けられるか。試されているのは我々である。


追記:どうやら静岡では「不都合な真実」は上映しないらしい。どんな不都合があったのやら。