シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

「東京タワー」で泣けるか?

東京タワーの劇場公開で、CMが頻繁に掛かっている。気になるのが、鑑賞者の「泣けました」のコメント乱発の部分。もちろん、鑑賞者が「泣ける」事に文句を付ける気は無いんだが、CMのポイントに「泣ける」を置くことには違和感がある。


身内が亡くなったり、悲しいことがあった時に気付いたのが、人間は悲しみ続ける事が出来ない、という単純な事だった。
通夜の席でも冗談は言うし、ハラは減るし、眠くなるし、笑ったり、怒ったりする。日常とあまり変わらない。だが、ほんのちょっとした心の隙間に、悲しみは忍び寄ってくる。ふと、こみ上げてくる悲しさに、ボロボロ泣けたり、嗚咽するのだ。悲しみは、日常の隙間にある。


ずっと悲しみ続けることも、泣き続けることもできない。その事がむしろ悲しい。
悲しみ続ける事ができたなら、泣き続ける事ができたなら、どんなにか清々しいか。


失う悲しみを描くのなら、「泣ける」部分を前面に出してしまってはダメだ。日常を淡々と過ごす中、欠けた部分に気付く刹那に、涙はやってくる。
だから、「泣ける映画です」なんて謳われてしまっては、その涙は「涙のための涙」になってしまう。
それじゃあ、魅力半減というものだろう。
映画関係者のインタビューでも、泣ける事を前面に出さないようにしているのが伺える。なのに、宣伝で「泣ける」をうたってしまうのではダメではないの。

「予定調和ではない感動を発見して」 映画「東京タワー」の松岡錠司監督
「撮影後にオダギリは『泣かせに走ったら抵抗するつもりだった』と話していた。こちらは脚本通りに撮っただけだけれど、湿っぽくせず淡々と紡いでいこうという気持ちは、スタッフ全員が共有していた。映画ならではの豊かな時間と空間を作り出せたと思う」

http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200704250238.html