自滅する日本の科学・技術
科学と技術 本社世論調査
技術発展に期待と不安
世界初の人工衛星を旧ソ連が打ち上げ、日本でも原子炉の運転が始まって「原子の火」がともった年として記憶される1957年。科学・技術の急展開を受け、朝日新聞社はこの年の5月1日、他紙に先んじて科学部を新設した。それから半世紀。日本は科学技術立国を追求してきたが、有力途上国の追い上げが背後に迫る。科学・技術をめぐる人々の意識を世論調査で探った。
(以下、略)
(朝日新聞 2007.5.1)
結構前の話題。まあ、この意識調査に関しては取り立てて関心はない。科学・技術と併記されているものの、日本では科学より技術に力点が置かれてきており、とりわけ基礎的な研究は蔑ろだった。現在の国立大学独立法人化や予算の傾斜配分はこの流れを加速させており、10年も立たないうちに理系に限らずアカデミズムを崩壊させるだろう。
本来、アカデミズムの閉鎖的なところを解体するとか、有望な研究に重点的に予算配分するのは悪い事じゃないのだが、何せ独法化は文科省の権限というか天下り先確保だし。予算配分も科学の何たるかを知らない連中が決めているわけだから、ろくな事にはなっていないのが現状だ。
まだ、予算の均等割でもした方がマシである。
もともと、日本における科学・技術は力点の置き方を「改良」に向けている。メーカーの「当社独自技術!」と謳ったものも、元ネタを調べていくと基本原理が外国研究者のものだったりすることが珍しくはない。もちろん、有望そうな技術や他社が見捨てた技術を見いだしてモノにするのだから、それ自体は批難するつもりなど無い。それはそれで素晴らしいのだが、問題は、少なくとも技術面でトップクラスに躍り出た日本(メーカーや研究機関)の「次のネタ」探しに行き詰まりつつある点にある。そうした「次のネタ」を探すにはロングスパンの基礎的な研究が欠かせないと思うのだが、この点で日本の(企業も国も)指導層は長期的視野と判断力に乏しいな、と感じるわけだ。
このネタについては折に触れて書いていこう。自分の生き方にも関係する事だし。
もう一つ、苦笑してしまった事がこの朝日の紙面にあった。‘科学・技術系ノンフィクション作家’の中野不二男さん、の論評。
天気予報や放送・通信を支える衛星は、もう当たり前のインフラ(社会基盤)。宇宙開発で「得るもの」は気づかれにくくなっている。それだけに、全体として「現状維持」にとどまる調査結果には、宇宙関係者・機関の情報発信の不足が表れている。原子力発電について、女性では、抑制の立場の人が、推進の立場の人の数倍いるのに対し、男性では両者がほぼ拮抗している。男性は、車に給油する時や仕事関係で、石油の高騰など厳しいエネルギー事情に触れる機会が多いためか。
くだらねぇ。これが‘科学・技術系ノンフィクション作家’の言葉だとしたら、日本の科学・技術もたかが知れているというモノ。
宇宙開発とはいうが、衛星関係は既に民間レベルで可能になって20年以上になる。EU(フランス)のアリアンでも、ロシアのロケットビジネスでもそうだ。中国も参入してきている。未だにそのレベルまで達することなく、成功するかどうか未だにギャンブルじみた国産ロケットに疑問の声が上がるのは当然だろう。もちろん、国産ロケットの研究自体を非難する気は自分にはない。そういう研究も必要だろうとは考える。だが、理解不足(情報発信不足)と決めつけるのでは、話にならない。むしろ、中野氏が理解不足なのだろう。
それから、宇宙開発には、例の「きぼう」他、有人宇宙開発計画も含まれている。この予算だって結構バカにならないのだ。少なくとも有人宇宙開発の幻想に振り回されている点では、日本は酷いモノだ。
アメリカでは主要な科学者は有人宇宙開発はムダ、と見なしているし(発言もしている)、アメリカ、中国指導部は国威発揚のアイテムだと割り切っている。ロシアにとっては外貨獲得のビジネスでしかない。日本だけが有人宇宙開発幻想を官民で振りまいており、科学者もそれを表だって批難しない。水伝やオーラの泉は批判しても(それ自体は当然だが)、有人宇宙開発はスルーされている。
原子力も同じだ。原子力に批判的なのは認識不足、それが中野氏の考えのようだが、なら、食物に触れる機会の多い女性に「遺伝子組み換え」を気にする人が多いのは、その考えが正当である、でいいわけだ。(中野氏はどうせ、遺伝子組み換えを気にするのは認識不足と考えるだろう)
以前紹介したが、原子力に対しては、科学技術に携わる人間からの方が、むしろ批判は多い。原子力は知れば知るほど止めるべき技術、それが自分(シートン)の考えである。単純な、知らないから反対している、みたいな認識はあらためて欲しいものだ。
追記:写真は大井川の蓬莱橋