シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

アユとクジラ

このエントリーは


捕鯨論考
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20060516/1147771687


における、Phlsさんへお答えです。

>しかし、本当の問題点は「家畜」か「野生動物」かにある。完全に繁殖管理され絶滅の怖れが無い「家畜」と「野生動物」では条件がまったく異なる。
ここで「論点ずらし」が行われていませんか?
もともと
>牛や豚、鶏などの家畜は食べてよくて、クジラがダメというのは偏見ではないか。
という箇所は

(*)「牛・豚を食べる権利」を「原理的に」我々は持っているが、「鯨を食べる権利」を「原理的に」持っていない

という主張に対する反論なのではありませんか?

申し訳ありませんが、この部分の

(*)「牛・豚を食べる権利」を「原理的に」我々は持っているが、「鯨を食べる権利」を「原理的に」持っていない

と主張している諸団体自体、ほとんど存在していないのです。WWFにせよ、グリーンピースにせよ。
シー・シェパードあたりは、こう主張しているかも知れませんが。
このへんが、日本の(一般の)人々の誤解なのです。
もし、クジラを牛や豚のように食べる基本的な権利を保有していない、とするならば、そもそも先住民捕鯨も認められる事はないはずです。
実際には、各地で先住民や伝統的捕鯨が行われており、それをことさらに批判する環境団体はいません。あくまでも“商業レベルの”捕鯨に反対しているのです。


クジラの知能が高いから採るな、と主張している、というのも誤解の一つですね。
もともと、欧米各国の文化的バックボーンであるキリスト教では人間とそれ以外を峻別します。知能を持つ、事が保護の対象になる、というのは科学者などならあり得るかも知れませんが、一般的にそういった形での保護活動が盛んとは思えません。

ある動物を食用動物として扱うことの妥当性についての問題と、その食用にしてよい動物を商業的に扱うことの是非が混同されていませんか?

ですから、混同はしていないのです。

Dr-Seton様は

>それは大方の環境保護団体は大規模な畜産業、特に大企業による寡占化とそれに伴う問題に批判的である。ファーストフード等に対しても敵対的だ。

と書いていますが、環境保護団体だって「伝統的な」「昔ながらの」畜産業による家畜は食べていい、という見解を持つことだってありうるはずです(ただ、私はこの問題に詳しくないので、間違っているならば、つまり少なくとも捕鯨反対を主張している環境団体の構成員が「菜食主義者」ならば訂正します)。

まさにその通りで、「伝統的」「昔ながら」の畜産業、による家畜は食べて良い、と考えていますよ。より正確に言えば、「生産者の顔の見えない」大規模畜産業(というより食肉生産業)に批判的である、と云えます。

つまり、(環境団体についての私の仮定が正しいとすると)上記引用部分自体が「食用にしていいかどうか」ということと「その動物を商業的に扱っていいか否か」ということの区別に依拠しているはずです。

この区別に基づかない「反捕鯨論」は、後者(商業的に捕鯨をすることの是非)を理由として前者(鯨を食べていい権利)を否定する、「文化帝国主義」(例えば、「知能の高い動物だから食べてはいけない」「『ホエール・ウォッチングの対象としての鯨』、つまり『観光資源としての鯨』の『食料資源としての鯨』に対する原理的優位」など)に意図的ならずも加担してしまうのではないでしょうか?』

むしろ、日本の捕鯨推進側が混同させていると云えるのです。
日本では、先述したように伝統的沿岸捕鯨は、“近代的遠洋船団捕鯨”、つまり「商業捕鯨」の登場と共に消滅しています。というより、積極的に消滅させたのです。
ついでにいえば、日本においても戦前の捕鯨は食肉目的ではありません。大漁だったために、捕獲した鯨を捨てた、ケースは枚挙がなかったそうです。
すでに沿岸捕鯨が消滅して100年以上になろうというのに、沿岸捕鯨復活を、と言い出しても(それも主張するのが消滅させた張本人とあっては)認められないのは当然でしょう。


しかも、おかしな話です。
拙ブログでも取り上げましたが、諫早湾干拓では多くの漁民が生活のすべを失いました。


諫早湾開門調査・行政訴訟 漁連の訴え却下 福岡地裁
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20061227/1167208071


タイラギをはじめとして、諫早有明の海は魚介類の宝庫であり、その食文化はエセ食文化である鯨肉食と違い、縄文期より続く「正しき日本の食文化」です。それらを失わせる事に対して、日本政府はむしろ積極的に荷担しています。補償金をちょっとちらつかせるだけで済む、とばかりに。
こうしたケースは全国各地で起きています。
山口・広島・岡山の瀬戸内埋め立て、岡山児島湾干拓、島根中海宍道湖干拓長良川河口堰、藤前干潟干拓、千葉三番瀬、etc。
どれも貴重な水産資源の宝庫でしたが、それを破壊することに政府は躊躇していません。未だに熊本球磨川のように「失わせる事に」執着し続けているケースも数多くあります。


これらの扱いに比べて、既に失われた伝統文化と、存在しない食文化に対して日本政府は随分と理解があるようです。
こうしたダブルスタンダードが、自分が捕鯨推進論に不審を抱くきっかけとなりました。


Phlsさんのようなご意見はよく見受けられます。誤解を解くためにも、グリンピースジャパンのwebサイトや、星川氏の本に目を通される事をオススメします。


追伸:できれば、Dr-Setonではなく、シートン、とお呼びください。よろしく。