シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

時代遅れの原子力 2

時代遅れの原子力 1 
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20071203/1196674922
の続きです。


原子力が依って立つ体制は、前近代的な支配体制であると指摘した。では技術的にはどうだろうか。


核反応からエネルギーが取り出される可能性が指摘されたのは、オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーが「ウランの核分裂反応」に思い至った時からである。時は1938年。既にファシズムの跫音が響く中での事だった。U235核分裂時に複数の中性子を放出し、「連鎖反応」が可能で散乱断面積の調整により臨界状態を保てるとされたことから、「原子炉」による「核エネルギー」の取り出し方の青写真が描かれた。


当時のパルプマガジンには既に原子力を取り込んだSFが数多く載せられている。そのいずれもが「核分裂」が何であるかを理解してはいなかったが*1、「少量で莫大なエネルギーを取り出せる」「未来のエネルギー」という「原子力」はSFには欠かせないアイテムであり、読者の夢でもあった。


面白いのは、原理はともかくとしてSFに載せられた「原子力」は様々な発想が広がった中で、現実は僅かに発電所としての役割にほぼ固定されている事。その後、原子力研究の中では、以前紹介した「オリオン」のような原子力ロケット*2や、原子力航空機、原子力列車、原子力バス*3、そして実用化した原子力艦船のような動力源としての役割。熱媒にヘリウムや水素のようなガスを利用したガス原子炉による製鉄や化学プラントとしての応用。などが研究されたが、どれもものになっていない*4


原子力の役割は見事に予見してみせた当時のSFだが、予見できなかったものがある。
それは半導体エレクトロニクスの隆盛である。
半導体エレクトロニクスの始まりはどこに据えるかには異論が様々あろうが、転換点となったのがショックレーら三人による点接触トランジスターの発明と原理の解明にある事は間違いないだろう。その後、固体物理学の世界は急激に進歩し、点接触からプレーナー型に、バイポーラ型の他FET型の発明。材料もゲルマニウムからシリコンに。そして、IC(Integrated Circuit)の概念と実用化技術の進展が相次ぐ。
真空管式コンピュータENIACと現在のコンピュータを比較すれば、その計算速度も消費電力もまったく桁違いである。現在の文明を考える上で半導体エレクトロニクスの存在は欠くことが出来ない。だが、原子力の存在は盛り込めたパルプマガジンSFには、半導体エレクトロニクスは出てこないのである。莫大なエネルギーを投入して、高速で真空管電子頭脳を駆動する未来は描けても、僅かなエネルギーで真空管電子頭脳以上に高速で計算を行う半導体バイスは想像できなかった。
原子力の生む無限のエネルギーを潤沢に利用する「量」の未来から、効率的なシステムを利用する「質」への未来へ現実は変わってきたのだった。
そして、半導体エレクトロニクスの生んだエネルギープラントが、「太陽電池」である。


1930年代にも「光電池」と呼ばれた硫化物系半導体を利用した光起電力を生かしたデバイスは存在した。しかし、その効率も低く、コストゆえに「太陽光からエネルギーを取り出す」事は考えられていなかった。古いカメラの露出計には硫化物系デバイスが利用されているものがある。
シリコン式の太陽電池が利用可能になったのは、発明された1954年以降の事だ。それでも、僻地での電源や宇宙衛星への搭載に留まり、それが手軽に太陽光からエネルギーを取り出せるデバイスになったのは、ほんの最近の事なのである。


ビッグサイエンスの申し子、原子力。その存在は1930年代から夢想され、40年代には実用化された。
一方で太陽電池は、固体物理学の申し子であり、新しい時代の担い手なのである。
原子力が夢想され、実用化された時代、世界の姿は単純なものだった。世界は機械的要素の組み合わせであり、人間にとって自然は窮極まで利用可能な存在だった。自然環境の、地球環境の脆さなど考えなくて良かった。


信じられるだろうか。現在、温暖化によって北極海の氷が溶け出す事が問題になっている。シベリアやアラスカの永久凍土が溶け出す事は大規模な環境変動を起こす事が懸念されている。
ところが、1950年代には、ベーリング海峡にダムを建設し、原子力を動力とするポンプで冷たい海水を北極海から流し出し、永久凍土を溶かしてシベリアやアラスカ、カナダを棲みやすい場所にしよう、という計画が考えられていたのだ。


21世紀のレポート(書評)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/21seiki.html


自然というものが壊れやすく、流動的で、密接な関係性と動的な揺らぎによって成り立っている、という「環境」の発想の無かった当時の人たちにとって、そうした計画は人類の進歩と調和を意味するものだったに違いない。


世界を、地球を、自分たちの意のままに改良し、より住みやすく出来る。そのための莫大な力は、原子力から引っ張ってくればいい。なぜなら、原子力は、「未来の」「無尽蔵の」*5エネルギーだから。


彼らのもつ素朴というか傲慢な自然観、それに依って立つ未来像は既に行き詰まっている。
その行き詰まった未来像の収まる神殿が原子力なのである。原子力に依存することは、時代遅れで致命的な自然観と未来像を引きずることになる。


太陽電池はどこまでも原子力と対極的なエネルギープラントである。
長らく国が開発研究や促進に力を注ぐことはなかった。開発研究は主として企業が担ってきたし、個々の大学研究室における予算獲得でも国の支援はさほどでもなかった。現在でさえ、太陽電池の研究予算はNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)を除けば潤沢とは云えない。聖域扱いでどんなボンクラな研究でも*6大盤振る舞いの原子力関連研究とは比較にならない。


その昔に国の「サンシャインプロジェクト」というのが行われた。太陽熱式エネルギープラントを試作し、その実証を行うというものだった。その実験は無惨なまでの失敗に終わり、現在でも太陽光エネルギー利用については、
・コストが高い
・太陽光のエネルギー密度が低い
・よってエネルギーとして利用するには大面積が必要で、実用的ではない
という意見が散見される。


だが、この意見にあるのは、太陽光エネルギーを中央集中的に使う発想から抜け出せていない頭の古さである。
皆が承知しているように、太陽光エネルギーの利用は「各戸」が分散的に行うのが効率的である。
家の屋根は「空いたスペース」であり、太陽光エネルギー利用には最適だ。
なにより利用方法が間違っている。太陽光→熱→発電タービン→電気 はムダが多すぎる。
太陽光の主要スペクトルがほぼ6000℃に相当するのに、数百℃の蒸気に換えるのは質的に無駄を伴う。
だから、太陽光→電気 の太陽電池で電力を、太陽光→熱 の太陽熱温水器で給湯・暖房を担わせるよう、分担するのが効果的なのである。太陽電池の効率は太陽光エネルギーを100%利用できないが、電力は質の高いエネルギーである。太陽熱温水器は、太陽光エネルギーを質的に低い「熱」に換えてしまうが、100%に近いエネルギーを利用できる*7


この場合も、僅かな効率の上昇が大きなアドバンテージになる。シリコン型太陽電池の原材料であるシリコンは地球の地殻を構成する主要材料で、資源は遍在し、無尽蔵に存在する。資源量よりも、むしろ設置面積や発電効率の方が問題になる。
だから、何よりも国の研究予算を注ぎ込むなら、エネルギーの安全保障に拘るなら、太陽電池に注ぎ込むのが得策である。だが、実際には国の研究に対する姿勢は原子力に拘泥しており、それ以外には極めて冷淡である。


原子力は、中央集中的で、偏在希少元素を利用し、ビッグサイエンスに依って立つ。
太陽電池*8は、分散的で、遍在潤沢元素を利用し、ビッグサイエンスに依らない。

どちらが、我々のこれからにふさわしいだろうか。


原子力が「時代遅れ」なのには、他にも理由がある。
原子力関係者はしきりに、ウランが少量で大量のエネルギーを出す事を強調する。問題なのは、少量のウランとはウラン235の事であり、実際のウラン鉱石に換算すると、決して少量ではない。
そして、ウランは石油・石炭以上に偏在の激しい元素であり、重元素故にその量も潤沢ではない、という事を無視している。
かつて日本では岡山県人形峠でウラン採掘を行い、ウラン資源を自前で調達できるか研究を行っていた。


人形峠環境技術センター
http://www.jaea.go.jp/04/zningyo/


しかし、結局は量的に問題にならず、多額の資金を投入した研究は頓挫した。現在の黒歴史の一つでしかない。現在、原子力発電に利用されるのは全て海外からの調達に依っている。将来の安全保障を考えれば、石油石炭以上に問題があるのだ。なぜなら、ウランは軍事転用が可能なために何かあればすぐに入手困難になる可能性が高い。軍事的観点に立てば、「契約」などは反故にされる事は容易に想像できる。ウラン資源を獲得するために軍隊を派遣できるか?
それほど苦労を伴って獲得しようというウランだが、これも埋蔵量は現在のペースでも70年程度の利用しか見込めない。プルサーマルにしようとも倍には延ばせないのである。
原子力ルネッサンス」などと調子にのれば、たちまち尽きてしまう。それがウランである。


ちょっと考えてほしい。日本における原子力発電は総発電量の3割を占め、現在55基の原発が存在している。
隣の中国が「地球温暖化防止」のために原子力導入を熱心に進め、日本並みの生活を享受する事を目指したら、500基以上の原発が必要、ということになる。これはインドも同じ。単純に人口割りしてやれば、中国にもインドにも500基以上の原発が必要なのだ。
自分にとってはこれは悪夢でしかないが、皆にはそうではないのだろうか。他国に自国と違う基準を押しつける事はできない。日本が原子力を強力に推し進めるなら、中国はそんなに原子力に頼って欲しくはない、そんなに電力需要を伸ばして欲しくはない、と述べる事はできないはずだ。


だから、自分は原子力に頼らない世界を希求する。エネルギー使用総量を漸減させ、自然エネルギーで賄える体制にする。それは他国にも適用できる手段である。世界的に見ても必要な事なのだ。

*1:ナチス核兵器に興味を抱いた頃以降、アメリカでは核物理に関する研究公表には制約が掛かった

*2:ロケット、とは多少異なるが、適当な呼び方が思いつかない

*3:これは、映画のネタになってた気がする

*4:原子力艦船も軍事用に留まる。例外として「むつ」や幾つかの商船などがある

*5:当時でも、ウランの埋蔵量はすぐに尽きる事が知られていた。従って、この無尽蔵さは高速増殖炉核融合への期待でもある

*6:実は、原子力関係の研究を行った事がある。潤沢な資金と意味のない研究に戸惑ったものだ

*7:熱としてしか利用できないが

*8:バイオマスも、風力も、小型水力も、燃料電池も同じだが