シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

ワナに注意

一連の「南京事件」ばなし。いろんな方々が適切な突っ込みを加えているので、特に付け加える事は無いのだが、年末年始に目を通した笠原十九司氏の「南京事件論争史」の冒頭に印象的な文章があったので引用する。今回の騒動が特に例外的な話ではないことを物語っているのだ。

本書の書名を『南京事件論争史』とするについては、戸惑いもあった。それは、本書を読んでいただければわかるが、通常の学問論争、歴史学論争とは様相が異なるからである。率直にいえば、学問的に生産的な議論ができずに、論争する相互の主張のいいっぱなしに終始し、議論のかみ合いがなく、双方同じ主張を繰り返しているように見えるからである。

(中略)
こうした「どっちもどっち」「ドロ仕合」といった嫌悪感が、日本人のなかに多数の傍観者を形成させ、南京事件歴史認識の定着を妨げている大きな要因になっている。それこそ南京事件の事実を日本人に記憶させまいとする人たちや勢力の思う壺にはまっている。
(「南京事件論争史」笠原十九司 平凡社新書 p.17)
(文字色替えはシートン


たぶん、id:fromdusktildawn氏(以下、from氏と略す)達は悪気は無かったんだろう。自分で少しでも文献というか概説書程度には目を通しておけよ、という当然の突っ込みはともかくとして、「どっちもどっち」「ドロ仕合」と感じたのはある意味当然だった。というか、それこそが否定派の狙う所であったわけで、まんまと質の悪い「南京虫」に食いつかれたようなものである。
問題は、自分たちが「中立公正」「不偏」であるつもりで、南京虫に食いつかれた事に気づかない事にある。


現在、沖縄集団自決に関しても同様な手口、つまり曾野綾子の粗雑な検証を元に、文科省教科書検定において「住民の集団自決は軍命によるものだった」という話は、「それを否定する意見もあり議論の余地がある」として「削除」が求められた経緯があるわけだ。もちろん、学問的には日本軍関与は疑いのない話なのだが、ムリムリな話でもグダグダの「ドロ仕合」に持ち込む事で、「どっちもどっち」の印象を生み出す事になり、文科省に検定意見の根拠を与えることになった。


似たような話はニセ科学にも登場する。有名なところでは「ホメオパシー」が挙げられるかもしれない。ホメオパシーは到底医療行為とは認められないものなのだが、何度と無くシンパはホメオパシーを“科学的検証に掛ける”事を求めている。実際には既に検証済みなのだが、再検証に持ち込むことで「学問的に論争の余地がある」ように見せかけているのである。
以前、「nature」にホメオパシーに関する論文が載ったことがある。もちろん、否定的な意味合いとして載せられたものだったのだが、科学者の大きな反発を生むことになった。“シンパに科学的に取り合う価値があるという言い訳を与えてしまう”というものだったが、それは現実のものとなった。
グーグルでも何でも、「ホメオパシー + ネイチャー or nature」で検索してみるといい。
ニセ科学と“論争”することは、それ自体がシンパをアシストすることになるのだ。
他にも「永久機関」「エリア51」「地球温暖化懐疑論」「進化論否定」とか、日本においては「マイナスイオン」や「水伝」などが相当する。歴史学においても「ホロコースト否定論」などに同様な手口が使われている。


つまり、この「亀田戦法」こそがエセ連中の手口であり、持ち込まれた段階で連中の罠にはまったようなものなのだ。必要なことは、もちろん知識を手に入れる事だ。その程度の手間は惜しむべきじゃない。少なくともはてなでは無知であることを晒した瞬間に盛大に突っ込みが入るのだから、「シロウトは議論にクビを突っ込んだらいけないのか」なんて逆ギレしないで、素直に忠告に従ってみるのがいいだろう。さらなる疑問があれば、その時は改めて尋ねてみれば良し。


もう一つ。from氏が「差分」という言葉に拘っていたが、例えば「差分」に該当しない、と考えている部分は問題無し、という考えなのだろうか。「戦争ならあり得る事」として「無視」される部分でさえも、人は殺され、犯され、奪われ、焼かれている。「差分」「差分外」として区別される中で被害者を蔑ろにすることは当然の事だろうか。それぞれの具体的体験を抽象化することはどうしても承諾できない。全体像を描く上では避けられない事かもしれないが、少なくとも免罪に繋げる事には反対だ。

南京事件は一国の首都攻略時に起きた蛮行としては確かに特筆すべき部分がある。しかし、日中戦争、二次大戦を通じて日本軍が行った所行としては、むしろ“ありふれた”行為ですらある。従って「論争」の発端となった本多勝一の「中国の旅」においてもエピソードの一つとしてしか描かれていない。「差分」を必要としたのはむしろ否定派の方である。その「差分」を否定する事で全体像までも否定する手法を取っている。


南京事件の特殊性に拘る事も、否定派の罠に嵌っていると云っていい。
from氏の経緯は、何から何まで「否定派」のカモとなっていたことを示しているのである。

本書は「南京大虐殺論争」「南京事件論争」を「どっちもどっち」「ドロ仕合」と嫌悪し、遠ざけている人たちにぜひ読んでいただきたいと思う。そのためにも書名を『南京事件論争史』とすることにした。
(同書より引用)

ま、少なくとも「南京事件」は概説書が出ているぶん、楽な方だと思う。まっとうな図書館に行けば、秦都彦、洞富雄、吉田裕、藤原彰笠原十九司らの本にあたるのは難しい事じゃない。