シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

いのちの奪い方

ずっと昔のことだ。子供相手のボランティアをやっていた時のこと。ある時、キャンプを行って、その夕食時にニワトリをシメて料理することになっていた。ニワトリは近くの養鶏場から譲り受けた廃鶏といわれる老鶏。「子供たちにたべる事の大事さを伝える」授業の一環として行ったものだ。
参加した子供たちの親たちは口々に
「命の大切さを教えるために必要なことだ」
「食べ物がどうやって手に入れられているのが教えてやって欲しい」
「食べるためには、他の生き物の命を奪わなければならない事を伝えて」
と、立派な事を言ってくれたのだった。
ところが、いざ鶏をシメるとなった時、親たちは
「自分は血が苦手なので」
「こうしたことはやったことがないんで、慣れた方に」
「いや、ちょっと出来ないです」
と仰り、
「どうか、先生(私の事)がやって、見せてやってください」
と云い、誰一人として自分でやろう、という親は現れなかった。
みなさま、ボランティア学生ごときに、命の大事さを伝える役割を譲ってくださったようだ。


鶏を逆さに吊し、羽を背中側で絡ませる。こうしないと、シメる時に暴れる可能性がある。
この段階で、鶏は観念したように温和しく、目を瞑ったままだ。シメ方には
・首を切り、血を流してしまう
・頭を潰す
・延髄を破壊する
などあるが、一番、鶏の苦痛が少なく血も流れにくい、延髄に尖ったものを差し込み破壊する方法をとる。鶏の頭を左手でくるむ。鶏の熱さが伝わってくる。命の熱さだ。右手の錐を鶏の後頭部の頸椎との間に差し込む。鶏が一瞬もがき暴れる。延髄に届かせるとグリグリと錐を回し、「早くおとなしくなれ」と祈る。痙攣が停まると、左手を放す。鶏は息絶えていた。すぐにナイフで首を切り落とす。血がボトボトと滴り落ち、鉄臭い匂いが立ちこめる。首は簡単には切り落とせず、骨の継ぎ目に当ててゴリゴリとこじり、伸びた皮を切り落とした。しばらく置いて血を抜くと、湯に浸けて毛をむしる。羽の下から出た脂肪が手にまとわりつく。細かな羽毛だけになったら、直火であぶり産毛を焼き切る。ここまでくると、香港の街で見掛けたような姿になった。
肛門の廻りを切り、腹を割く。内臓を取り出すと、詰まっていた卵の原型がぼとぼと落ちる。鮮やかな黄色だ。内臓が出るとムッとするような匂い。手についた脂肪が取れない。あとは、腿、肋骨廻り、背骨にそっての肉、首、とバラしていく。どんどん、肉らしくなった。
ここまでやって、しかし、取れた肉は僅かでしかない。手際が悪いために骨に付いた身は多く、内臓は見ていた親子たちが嫌がった。
そして、出来上がったチキンカレー。肉は固い、と不評だった。歳取った鶏の肉は滋味があるが、固い。しばらく寝かしておくならともかく、キャンプでは美味しくなる時間はない。
しみじみと固い肉を、自分が命を奪った鶏の肉を、噛み締めながら、鶏の残骸を見て、鶏の最後を思った。
親たちは口々に「良い経験になった」と口にした。
しかし、自分が感じたのは「鶏の命を奪うほどの価値が、この食事にあったのだろうか」だった。


結局そうなのだ。
「(自分が)生きていくためには、何かしらの命を奪わなくてはならない」と厳かに仰る方々は、しかし、自分の手を汚したりはしない。自分の手を熱い血に浸したりはしない。自らが奪った命の価値を推し量ったりしない。それは言葉に過ぎないのだ。
確かに自分たちは、何かの命を奪わなくては生きていけない。だが、どの程度その重みを感じている?むしろ、自分たちの行為を正当化するためだけに使われてはいないか?自分たちの後ろめたさを隠すために使われていないか?


それからも何度か動物の命を奪った。何のために、とは云うまい。それが正当化するわけもないのだから。今でも食事をすれば、何らかの形で命を奪っている。ビーガン*1というわけじゃないが、それでも肉はあまり口にはしない。自分でシメなくても、誰かが代わりに命を奪っているのだ。それに知らぬふりを決め込む方が罪深くないか、と考える。
そして、自ら命を奪った経験から得た言葉は
「生きていくためには、何かしらの命を奪わなくてはならない。だから、命を奪うことは仕方がない」では無かった。


「命は奪わざるをえないなら、だからこそ、極力奪うまい。奪わずに済むなら奪わずに済ませよう。奪ったのならば、それを大切にしよう。」だった。


命を、何かを奪うことが当然、と正当化できると考えるなら、それは違う。奪うことへの懐疑は常に持ち続けなければならない。そして、それが私が子供たちに伝えられる言葉だと思った。今でもそう考える。

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

追記:当ブログ始まって以来の大反響だったので、ちょいと驚いております。
全部にお答えできませんので、包括的な追記にてご挨拶を。


さて、私は屠畜に参加して頂けなかった親御さんについて若干批難めいた書き方をしていますが、彼らを責めるつもりは無いのです。別に“実際に手を動かさなかった”事が問題だ、というわけではありません。言いたかったことはむしろ逆で、「食の大事さを知るためには、屠畜を体験しなくてはならない」という言葉が固定化されているのでは無いか、という違和感です。それが大事だ、という考えが現実の体験と齟齬を生じ、実際の食事に充分に生かされていない、その方が問題ではないか、と考えたのです。ですから、実体験のあるものにしか主張する権利は無い、というつもりはありませんし、体験したから威張れるというわけでもありません。
ただ、あくまでも、どのように考えようとも、生きていく上で他者の命を奪っている事は確かだが、しかし、それはその行為自体を正当化するものではない、ということなのです。
我々はさまざまな生き物を食しますが、被食者は“食べられるために”存在しているわけではない。彼らにも彼ら自身の命が存在する。命を奪うことを役割に擬して正当化を図らず、見つめたいのですよ。


植物であろうと虫であろうと同じです。鶏はダメだが虫や植物は良いのか、と言われれば、「どのような命であろうと奪うこと自体は正当化できない。必要であるとしてもそれは極力避けるべきだ」と主張します。アマちゃんだ、というのならそれもよし。私は一生アマちゃんで生きるとしましょう。奪う事への懐疑を口にし続けます。


頂いたコメントで気になったところを。


ビーガンについては幾つか御指摘を頂きました。あちら、へ行った時にビーガン向けのメニューというのが多かったのです。で、ベジタリアンという言い方はあまりしない、と云われたために当たり前に考えて気づきませんでした。
なるほど、ググってみるだけで色々載ってますね。ご指摘感謝します。記述はそのままにしておきます。

*1:菜食主義者ベジタリアンという言い方はあちらではあまりしないようだ