シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

増田に突っ込み

結構、アホ話書いているので突っ込ませて貰うよ。


トリアージ批判が理解できない理由
http://anond.hatelabo.jp/20080811021912

暴走したときの危険を根拠にして元のものに倫理的な問題があると説くのはどう考えてもフェアではない。大抵なものは暴走したら有害に決まっていて、それは有用なものほどそうだ。問題は暴走のリスクがどれだけあって、それをどのようにすれば抑制できるかということであって、暴走の理論的可能性ではない。

違う。暴走リスクが例えば「1万年に一度」としても、それは1万年後に起こる、事を意味しない。リスクが生じた時の損失と得られる利益との比較は行われるが、それはリスク評価を無視して良いことにはならない。リスクコントロールが人間の手に委ねられる以上、起こる可能性は常に考慮する必要がある。
抑制できる、というのは思い上がりにしかすぎない。

これを度外視したこの批判は、類型的なレベルの低い原子力批判のようだ。原子炉が暴走したら確かにチェルノブイリのような悲劇が起こるには違いないが、チェルノブイリには機械系にも人間系にも、日本では存在しないような構造的な問題があって、それがあの事故の発生に不可欠だったこともわかっている。しかしこの種の原子力批判はそういうことを考慮した上でリスクを定量的に評価しようとは考えず、ただただ情緒的に危機を煽る。

TMIの事忘れてるだろ?チェルノブイリ旧ソ連黒鉛炉に関しては既に説明した。事故前に賞賛されTMIに比べて優れていると評価していたものを、掌を返したように批判し、“構造的に問題があった”ように主張すること自体、政治的な判断だ。
ついでにいえば、TMI以前に炉心熔融の可能性についてアメリカの原子力関係者は以下のように述べていた。

〔答12〕一部の反対論者は、我々の採った確率の数字は小さ過ぎると言うわけであるが、しかし、そう言いながら、彼らは反対の根拠を提示していない。我々は、例えば燃料溶融の確率を2万分の1としたが、200原子炉・年の4)間でこのような事故が無かったという、我々の実際の経験からすれば、この確率は200分の1となる。

注4)1原子炉・年(Reactor・Year)とは、1基の原子炉が1年間運転された場合で、200原子炉・年は、例えば、50基が4年間運転された場合。

2万分の1と200分の1とでは、2桁の差があるが、実際には、そのような差はありそうには思われない。いま、ずれを修正しようということで、カープを2桁上にずらしたとしても、他のものによって起こされるリスクと比べると、なお2桁の差で、原子力発電のリスクの方が小さいというわけである。例え、そのような修正を行ったとしても、原子力発電のリスクが、他のものよりは小さいのだという結論には、何ら変化は無い。

(ノーマン・C・ラスムッセン教授による講演会実施結果について)

http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/ugoki/geppou/V21/N05/197612V21N05.html


この講演はTMI以前に行われており、この4年後にTMIが生じている。何かが起こるまではこの話が“科学的”とされていたわけだ。つまり、リスク確率の見積もり自体が「中立ではない」可能性に思い当たらないと。

率直に言って、今回の件でトリアージ批判をしている人たちには同様の危うさを感じる。有り体に言えば、数式や統計が苦手な人が、定量的な判断を回避して情緒に頼るという反知性主義的後退だ。

行われているのは“トリアージ批判”などではない。増田君の方が、国語や読解力の点で問題があるだろう。

学問やってる人間をなめないでほしい、と正直思う。学問をやる上で基本的なことは、自分が何を前提においているかを意識することだ。仮に、倫理的な前提を度外視して最適解を求めるのが経営学だとするなら、そのこと自体は価値中立的なのだ。その解を無批判に現実に適用しようと政治的に動いた時点で、はじめて問題が生じる。

学問やってる人間をなめているのはキミだろう?どんな学問であろうと、それが価値中立状態にある、と考える事自体、ある政治的ポジションでしかない。

このことは進化論と優生学の関係を考えればすぐにわかるだろう。進化論を安直に理解すると(事実記述と価値判断を混同すると)直ちに優生学的な判断に至る。そして、優生学を嫌う人道的な気持ちが創造科学という反動を産む。まさに悪夢だ。本当の悪は「事実記述と価値判断の混同」であって、進化論じたいではないのに。

進化論を安直に理解して「優生学」が登場したわけじゃない。グールドの著作には、進化論が登場した時点で差別の正当化に利用され、ダーウィンがそれに対して批判的であったことが記されている。もともと、「進化(Evolution)」という言葉自体、“優れたものに変化する”という価値判断を含んでいる。“退化”という言葉が示す意味を考えれば判るだろう。“進化”“退化”は正確に記すれば「適応化」であり、等価な現象だ。
社会進化論などはダーウィンの意図するところでは無かったし、それは“科学的”で“客観的な事実”として優生学に利用された。中立を装う事自体が問題なのだ。常に「中立」には括弧書きが必要であり、自分が中立を装っていないか、に留意する必要がある。
これは、すでに科学が社会と切り離された抽象的な存在などではなく、「社会に貢献する」事を義務づけられている以上、どうしても生じる問題である。


ついでに付け加えておけば、“優生学を嫌う人道的な気持ちが創造科学という反動を産む”わけじゃない。創造科学が盛んな地域はどちらかといえば、人種差別が横行し、リベラル的価値を嫌う地域が多い。
科学的に人種差別を正当化する根拠を持ち出すように、科学的に超越者の存在を正当化する根拠を持ち出す。それが「創造科学」。


つづいてこちらも。


お説はごもっとも、しかし瀕死の重傷者を救わねばなりません
http://anond.hatelabo.jp/20080813012003

私は経営学者じゃないので現実の経営学の関心の方向性は正確には存じませんが(それはあなた方も同じでしょうからここに批判を向けないで頂きたく存じます)、仮に「倫理的な前提を度外視して最適解を求める」のが経営学だとしても、それが「ダメもいいところ」だとは全く思いませんね。

なぜかって?現在の経営学は未だ未完成だからです。未完成なものに「未完成な部分がある」と言っても、それはないものねだりだからです。仮に、この引用部が以下の通りだったらどうでしょう。

“未完成”なので倫理的前提を挟まない、とすれば、“永遠の”未完成になるだけだろうよ。
で、グダグダ言い訳してるね。

工学というものは価値判断や倫理と無関係にいられないので、倫理的な前提を度外視して最適解を求めるのが工学だとするならば、そんなものは学問としてダメもいいところだと思うけどな。

主旨としては同じことだと思います。そして、そのような価値観をお持ちになるのは勝手かと存じますが、価値判断や倫理の問題を学問的に整備してから先に進むなどという高踏的なことをやっていては、それこそ救えるはずの命が救えないことも多くあるはずです。そういうわけで、そういう小難しい議論は申し訳ないが人文系の方々に丸投げさせて頂いて、私は自分の道を先に進ませて頂くこととします。

本当に大丈夫か?時期が時期だから書いておくけど、マンハッタン計画も同じように
「価値判断や倫理の問題を学問的に整備してから先に進むなどという高踏的なことをやっていては、それこそ救えるはずの命が救えないことも多くあるはず」
として進められた事は承知しているんだろうね?
実際にアメリカ政府は現在に至るまで、救えるはずの命が救えた、として原爆投下を賞賛し、批判を受け入れてはいない。それは、多くの退役軍人にも云えることだ。


NHKスペシャル|解かれた封印 〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080807.html


だが、実際にマンハッタン計画に加わったオッペンハイマーは、自分たちが置き去りにしてきたもの、に突き動かされて原爆(水爆)開発に批判的になり、ついには公職を追われることになる。
ルーズベルトに原爆開発を促したとされるアインシュタインパグウォッシュ会議核兵器廃絶を訴えた。
現在に生きる物理学者なら、倫理と切り離された学問的価値、などと考えてはいけない。我々が研究し生み出すものは、社会に何らかの影響を与えずにはおられないからだ。それを「小難しい議論」などと斬って捨てる段階で科学者として失格である。

申し訳ありませんが、全然「自明」ではありません。まず「3番目」が何の順番かもわからないし、「ホモ-サケル」などというおおよそ一般的でない用語を注釈なしに使われていることからもこのことは明らかです。しかし、あなたのダイアリーを検索させて頂くと、一つだけ記事が見あたりました。そこから今回の件との関係で最も主要と思われる箇所を引用させて頂きます。

いったい、トリアージされる人々とは何だろうか。彼らはまだ「生きている」が、死のプロセスの中に置かれている。それはアガンベンがいうところの「定めることができず区切ることができない絶対的な生政治的実態」に他ならない。彼らはただ「生きているのみ」に切り詰められた人間である。アガンベンはそれをホモ・サケル<聖なる人間>と呼ぶ。「生きているのみ」というのはつまり「死んではいない」ということで、レヴィナスの言葉で言えばそれは「非-人間」であり、過剰な剰余によって特徴付けられている。ゆえに<回教徒>はホモ・サケルとして姿をあらわすのだ。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080529/p1

申し訳ありませんが、そのようなご高説が災害時の問題を考える際にどのように役に立つのか私にはまったく「理解できません」。

トリアージ“自体”の問題ではない、と述べているのに、何故「理解できない」ふりをするのか。

もちろん、物資輸送は自衛隊である必然性は無い。自衛隊派遣に単なる人道問題以上の政治的な含みがあると考えるのはごく当然であろう。にも関わらず、そしてそもそも援助自体に反対してないにも関わらず、少しでも自衛隊の派遣という事態を問題化した瞬間、とにかく人道問題なんだ教条主義だと声高に批判される理由は?

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080529/p1

この話は「トリアージ」問題と地続きだと思いますが、そのような反対をすることで人命救助の障害となることはあっても、資するところは一つもないと思いますが、いかがでしょうか。「白い猫であろうと黒い猫であろうと、ネズミを捕る猫が良い猫」で何が悪いのか私には「理解できません」。

この話は「トリアージ」問題と地続きなどではない。むしろ「トリアージ正当化」の問題と地続きなのだ。
読解力が無いようなので説明すれば、

緊急援助にしろ、物資輸送にしろ、自衛隊である必要は無いにも関わらず自衛隊派遣に拘るのは「政治的な」目的が存在する。が、それを「緊急事態」だからとか「人道的活動」だからと「中立」を装い正当化するのは、自衛隊派遣の反対を封じ込めようとしているんじゃないの?

ということ。キミの言葉に従えば、「白い猫であろうと黒い猫であろうと、ネズミを捕る猫が良い猫」なのに、白い(黒い)猫に拘っているのが、自衛隊派遣に執心する側なのだ。
それを理解していない、ってことは、「中立」なつもりのキミが自衛隊派遣に執心するポジションである事を示している。だが、キミは自分が「価値中立」なつもりなのだろう?

そして何より重要なことは、これらの件がどのように「ホロコースト」と「トリアージ」の重要な繋がりを示しているのか、私には一切見えてこないということなのです。私にはこれらの記述は、本質的でない共通点を議論のための議論の材料として指摘したようにしか見えません。このような指摘が許されるならば、「hokusyu氏は人間である、ヒットラーも人間である、ゆえにhokusyu氏とヒットラーには密接な関連がある」というような指摘も許されることでしょう。しかし、そのような言説が中傷以外の何物でもないことは敢えて論じるまでもないことです。

既に説明してきたとおり。「選別」と「選別の正当化」はそれ自体「価値中立」などではない。それを理解できないのなら、ま、あたまがわるい、としか言いようがないですな。


さて、ついでに。

ブクマで「ググレカス」とおっしゃってる方々がいますが、ぐぐってもわからなかったから書いているんです。そんなことをおっしゃるなら、ゲージ理論について用語の説明なしで記述してあげますから、ぐぐるだけで理解して頂きましょうか?

工学系でゲージ理論が登場する分野なんてあったっけ?自分も集中講義で量子色力学素粒子論などやったけど、正直ついて行けなかった。群論がニガテだったこともあるけど。
単にゲージ理論って言いたいだけじゃないの?

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