シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

 日の丸は無神経の証  告発のとき

イラクに派遣された息子マイクを持つハンクのもとに、マイクがイラクから帰還後、隊に戻らない、と連絡が入る。しかし、マイクからの連絡はない。息子は脱走したのか?基地に赴き息子の行方を追うハンクに思わぬ事態が起こる。マイクが殺害されて見つかったのだ。なぜマイクは殺されたのか?謎を追うハンクは息子の意外な事実に突き当たる。


原題は「in the valley of Elah」(エラの谷で)。原題の意味はハンクと、ハンクと共にマイクの死の謎を追う刑事エミリーの息子の会話で示される。


イラク戦争は夥しいイラク国民の被害を産んだだけでなく、その加害者たるアメリカ兵にも多大な傷、肉体的だけではなく、を付けた。解放者である事を、自らの側が正義であることを疑わない青年達が、甘言によって*1送り出される。そしてその行動を褒め称えることが、逆に彼らを追い込んでしまう。
彼らを褒め称えること、彼らを支持する、と表明することは、しかし、彼らの置かれた実態を無視し、その不正義を無化してしまう。イラク帰還兵は祭り上げられる自らのギャップに苦しみ、そして抱えた闇の深さを時々覗かせてしまうのだ。しかし、自らも軍人であったハンクは、その闇から逃げることが出来ない。トミーリージョーンズの皺だらけの顔は、その重荷に耐えかねている証である。
そして、ハンクはマイクが捕虜虐待に手を染めた事実に直面する。そして、隊の仲間も同様に自らと仲間の凶暴さを怖れ、マイクを手に掛けたのだ。真に恐ろしいのは、マイクを殺した仲間が、その後バラして焼き、その足でチキンを食べに出掛けた、と告白するシーン。
仲間を殺した後だというのに、ハラが減ったから、と何事もなく語る兵士に、彼が踏み込んでしまった闇の深さを思い知らされる。


原題のエラの谷は、旧約聖書にあるダビデゴリアテのエピソードの舞台。ペリシテ人の戦士ゴリアテと戦うことになった牧童ダビデは、投石器一つで立ち向かい、ゴリアテの額を打ち砕いて勝利する。のちのダビデ王だ。ハンクはエミリーの息子デビッド*2にこの話をして困難に立ち向かう勇気を教える。しかし、デビッドは母親にこう尋ねるのだ。
「なぜ、王は小さなダビデゴリアテと戦うのを認めたのか。送り出したのか。」
と。おそらく、ダビデが勝てなくてゴリアテに血祭りに上げられたなら、ダビデは勇気ある少年として讃えられただろう。しかし、ダビデは死んで讃えられることを望んでいただろうか?
英雄として祭り上げることで、逆に逃げ場を奪ってはいないか?
そして、誰が戦場に“少年”を送り込んだのか?その責を、送り込んだ側は果たしているのか?
実話を基にした話で、そうハギスは問いかけるのである。
ラストにハンクは星条旗を“逆さに”掲揚させる。今が非常事態なのだ、と。


我々日本人もイラク戦争にハッキリと関与している。我々もイラクにおける犠牲者に責があるのだ。だが、日の丸は逆さにしても違いがない。我々は、自分たちが非常事態である事にさえ、無神経であるのだろうか。

*1:途中、犯罪歴があるメキシコ人であっても入隊し、イラク赴任した兵士がいることが示される

*2:ダビデの英語読みだ