シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

勉強が出来ない態度を装う、というスキル


「勉強が出来る」という蔑称
http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1


このところ忙しくてネットを覗いてもいなかったのだが、盛り上がってますね、この話題。
どうも、“共感出来る”という意見と、“んな事は考えすぎ”という意見に分かれているようで、そのままエントリーの内容をなぞるような感じになってますな。
で、自分の意見としては、エントリーに同意。というか、自分もやはり“優等生である”事に対する引け目、というものを感じずにはいられない生活を送ってきたからだ。
学校における子供社会のヒエラルキーにおいて、勉強が出来る、ということは何ら寄与しない。むしろ、マイナスである。ヒエラルキーのトップは大体が、運動の出来る子であり、もっと単純化すればヤンキー系だ。
で、そんな子供社会で生きていくにはどうするのがいいか?答えは、


・勉強など判らない、気にしない、ふりをすること。


そういう風に装う事自体はさほど難しくはない。何事も知らない、わからないふりをして、その仲間に巧く溶け込む。

「グラマー・スクールみたいなわけにはいかないだろ。だからさ。おまえはカレッジ・コース。おれとテディとバーン、おれたち三人は職業訓練コースで、他の低能たちといっしょに、玉突きをやったり、灰皿や鶏小屋を作ったりするのさ。(中略)おまえは新しい仲間にたくさん出会えるよ。頭のいいやつらに。そんなふうになってんのさ、ゴーディ。そんな仕組みになってんのさ」
「たくさんの腰ぬけたちと出会う、って言いたかったんだろ」(後略)
   スタンド・バイ・ミー スティーブン・キング新潮文庫


コツは主人公ゴーディのように、無頼に振る舞う事だ。
問題は、そう振る舞ったところで、テスト結果が公表されれば明らかになってしまう。
子供にとって“陰でコソコソ勉強やっている”ように見られるのは致命的だ。それを巧くやり過ごすには苦労した。
自分が、勉強に興味がない、ふりをし続けたのは大学に入るまでだった。さすがに大学に入ると“勉強が出来る”事を咎めるような空気は感じなかった。もっとも、その頃にはツケがまわったのか、大学の授業を理解するのに苦労し始めていたが。
つまり、装ったキャラクターが本性になっていたためだ。無頼であり、理性よりは感情を優先し、知力よりは体力を優先し、外向的な性格。もはや、それは自分自身になっている。
正直に言って、今でも人に“物を知っている”態度などは取らない。他人からは「(理系の)博士っぽくない」とよく評されるが、それは故意に振る舞うところと、そして身につけたキャラクター、すでに変える事は出来ないが、の両方のためである。
今の職場では逆に自分のキャラクターは浮いてしまっている。どこにいっても自分は“黒い羊”なのだな、と痛感する。


ちなみに、“出来る子”が煙たがられるのは、日本だけじゃないようだ。

イギリスの学校は年齢ではなく、才能で学生を進級させる。フリーマン*1は、たいてい三年かそこら先んじていた。年長の同級生達はそんな早熟を別に気にもとめなかったが、同年配のものにとっては気分のいいものではなかった。小さなこぶしで殴られて、フリーマンは目のまわりに黒アザをつくった事もある。
   宇宙船とカヌー ケネス・ブラウワー(ちくま文庫


アメリカでも、イギリスでもそうらしい。おそらく、普遍的に子供の社会では勉強ができる事は優位性を示す事にならないのだろう。
現実の子供の世界には“出来杉くん”はいない。“ハカセ”のあだ名で呼ばれる子供もいないのだ。