自衛と差別
さて、しばらく性犯罪に関するエントリーを上げてきたわけですが、なぜ、これほどに私がこの問題に拘ったのか?その件について少し述べます。
まあ、多くの人にとって、性犯罪と自衛論が性差別と深くリンクした問題であるのは常識的な話であろうと思います。では、この日本において他にも差別に晒される人々がやはり自衛を余儀なくされている実態はあるのでしょうか。
その答えの一例を少し挙げてみましょう。下記は「差別と日本人(角川oneテーマ21)」。
著者の一人、辛淑玉さんは在日朝鮮人として根深い偏見と差別に晒されてきました。その彼女の語ったエピソードです。
かつて、日本名で生活している在日青年が、「オレ、朝鮮人なんだよ」と告げたとき、彼の友人たちが、「えっ、じゃ、内緒にしていてあげる」と言ったことがあった。これは、私はいいけど、他の人がどう思うかわからないから隠しておこう、という意味でもあったが、同時に「お前(朝鮮)は隠さなければならない存在なのだ」、と言外に示唆するものであった。
差別される側が、そしてそれに共感する者が、差別を避けるために「在日」であることを隠さなくてはならない。そして、それを「当然」と受け止めています。自分(彼)の出自が晒されれば偏見に晒される。それを避けるには“差別される側”が“自衛”しなくてはならない。悲しい現実です。
もう一つ。野中広務氏。自民党政治家として長年政界の裏表に通じた方ですが、被差別部落出身として差別問題に取り組んできました。
野中
僕には子どもがいて、娘なんだ。婿をもらったんだけども、婿には「おまえの姓を名乗れ」と言った。「そうでなかったら、おまえが小学校の時から積み上げてきたことがすべてゼロになるぞ。だからこれまで使ってきた自分の姓を名乗れ」と。僕には苦い経験があるからね。
こちらも同じです。娘婿が自分の姓を名乗れば差別に晒されることになる。それに対して「自分との繋がりを悟られないようにしろ」*1、と“自衛”を勧めるのです。
そして、自衛意識が内面化した被差別者はどう生きているのか。
辛
私、二十歳の時に「これからは本名で生きる」って両親に言ったんですよ。父は黙ってた。しかし母親は、「おまえは日本の怖さを知らない」って言ったのね。(略)
それで、二十歳になって自分の意志で生きるって決めて、それで頑張ったんですよ。ある時、母に、「今は朝鮮人と名乗っても大丈夫だから、『お名前は?』って聞かれたら、『シンです』って言いましょうね」って言ったら、その時から母親の体の具合がガーッと悪くなって、薬を毎日飲まないと怖くていられなくなっちゃった。
(略)
さらに、私が「朝まで生テレビ!」とかマスメディアに頻繁に出るようになると、すごいことになったんですね。うちの会社に嫌がらせが殺到する、それ以外にもメディアで発言するとやっぱり荒らしのように嫌がらせが来る、実家の住所も、どこで調べてくるのか、いろんな嫌がらせが来るわけですね。そうするともう家族は怯えてしまって……。それで私は親と離れて暮らすようになった。
それから、何年ぐらい経ってかな、母親が私に「日本名で暮らしていいか」って聞きに来たんですよ。私は「うん、いいよ」って言った。もういくら頑張ってもダメだったから。そしたら姉から電話がかかってきて、「あんたが自分の正義感を貫こうとするために、家族がどんな思いをして生きているかわかってるのか」って言われた。いつだったか、兄貴からも「本名で生きているおまえは親戚じゅうから嫌われてるんだぞ」って言われて……。
この間、うちの母は、一年かけて日本の国籍を取ったんですよ。そうしたら法務省の人に「おたくの娘さん、有名な人ですよね」って言われた時に、うちの母は「知りません」って言った。「もしおまえと親子だって知られたら、絶対この国は日本の国籍くれないから」って言うの。(略)
これを過剰だと思います?それとも、それでこそ自衛だ!と仰られるんでしょうかね。
さて、この差別によって在日韓国・朝鮮人や被差別部落民は檻に入れられた状態な訳ですけど、それが逆転して見えたかに思える状況がありました。関東大震災時の事です。日頃、差別者として振る舞うマジョリティ(=普通の人々)が、その逆転構図に怯え、そして“自衛”して見せたのです。
このとき迫害に遭ったのは朝鮮人ばかりではなかった。震災から五日後の九月六日、香川県の被差別部落から売薬行商で千葉を訪れていた女性や幼児、妊婦を含む十人が、自警団に組織されたごく普通の人々によって殺され、利根川に沈められた。
まず、自警団のとび口が行商団長の頭に飛んだ。つぎに、川へ逃れ赤子を抱き上げて命ごいをする母親に竹棒を振り上げた自警団員たちが襲いかかった。泳いで逃げるものは船で追い、日本刀で切りつけ、発砲したという。
マジョリティが自分たちの差別意識をスルーし、被差別者の“反撃”に過剰反応する。程度によっては辛さんに対するようなものになり、事によっては福田村の虐殺のような事が起こるわけですね。
私が自衛厨だけでなく怒ったのは、つまりそういう事です。マジョリティの側はいつだって被差別者の置かれる状況を過小評価するのです。そして、その構造が壊されることを怖れる。であれば、マジョリティの側にいる者がその事にセンシティブで無いのは犯罪的と云ってもいい。少なくとも、知ったなら、知らない知らなくていい、で済ますなよ、と思うのですよ。
最後に。辛さんの差別に向けての言葉です。その論法は巧くない、とか、もっと論理的に、と言いたがる輩へピッタリの言葉だと思います。
抑圧されたものが、その抑圧の重さゆえに声を荒げるのは、無理からぬことだ。ところが、それを理解できない多くの人々は、物事はどんな場合でも理性的な話し合いで解決されるべきだという原則を譲らない。その原則は、それ自体としては正しいが、現実の場面でそれを求める人たちは、自分たちが抑圧をしている少数者に対して、数の力で「オレのやり方にあわせろ」と言っていることに気がつかない。
学ぶことを奪われ、読み書きも出来ず、差別されるままに生きてきた人たちが、自己を取り戻し、誇りある存在であると自らを肯定的に認識できるようになるには、差別に正面から立ち向かうという過程が絶対に必要だ多くの糾弾闘争は、部落民が、差別者とのやりとりを肌で体験しながら、差別とは何か、差別に対してどのように反撃していくのかを身をもって学ぶ場でもあった。
そもそも、糾弾される側が冷静な議論を求めるのは、足を踏みつけておいて「冷静に話しましょう」と言うような茶番であって、まずするべきなのはその足をどけることなのだ。冷静な議論はそれからの話である。(強調:シートン)
では。
- 作者: 辛淑玉,野中広務
- 出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング
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追記:このような文もあった事に気づきました。読んだ筈なのですが、かつて見た風景と結びつける事が出来ませんでした。
Apemanさんのところにも書き込んだ事があったのに。
私、子どもの時に、新宿のガード下で物乞いしている傷痍軍人を侮蔑的な目で見てたんですよ。軍人嫌いの私には、唱っているのが軍歌だということもあったかもしれない。日本の国からお金貰ってるんだから良いじゃないか、と思ったのね。
そしたら、大人になってから、あれは朝鮮人だったってことを教わるわけ。結局、元軍人であっても朝鮮人だから、それで一銭も日本から貰えなくて、生活することもできなくて、しかも国籍条項によって福祉からも排除されている。だから物乞いするしかなかったってことを知って、私は打ちのめされたんですよ。
子どもの頃に明治神宮で見た、軍歌を掛け地面に正座をしてうつむく軍服姿の男。彼の手首は欠けていたが両親は「あいつらはイカサマだ」と忌まわしいもののように扱った。そこに根深いものがあったのだ、と今思う。