シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

鏡の中の石原慎太郎

表現規制問題、ちょっとだけエントリーにしたところで、碧猫さんよりこんなコメントを貰う。


http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20101214/1292336726

felis_azuri 表現規制問題 降りかかった後に謎のリアクションがそこここで見受けられるし、さぁ。 2010/12/15


ちょっと事情が判っていなかったのだが、こうした話があったのね。



「東京都青少年健全育成条例改正案に反対する緊急ネットワーク」と昼間氏らへんの対立(Togetter)

http://togetter.com/li/78617


…なんか、非常に気分の悪いものを見てしまった。どうしよう…。
昼間氏のサヨク嫌いとミソジニー垂れ流しにはウンザリさせられたのだが、ひでぇなぁ、と思ったのがこれ。

もともと今回の規制問題において気になっていたのが、「規制反対派」*1が相変わらずえげつない(と称するしかない)漫画(やアニメ)をどう捉えるのか?という点で「非実在だからOK」で済ませようとするところだった。
なぜ、えげつない強姦だとか虐待だとかを“娯楽”として捉える事が出来るのか?
もちろん、今回の規制問題で何度と無く取り上げられた名作においては必然性がある事は理解できる。が、スタージョンの法則 - 「SFの90%はクズである──ただし、あらゆるものの90%はクズである」- じゃないが、大概の漫画にはそんな必然性も意図も無いだろう。それを“娯楽”として楽しめる背景には根深い性差別が横たわっているだろう、と思う。
あの手の漫画やゲームが娯楽として感じられるのは、生来のセックスに対する反応、と思ったら間違い。それじゃあ、石原慎太郎

「世の中に変態ってやっぱりいるからね、気の毒な人でDNAが狂ってて。子供にさらさないように処置しただけ」

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20101218ddm041010056000c.html


と同じだから。


結局、石原慎太郎も「規制反対派」も同じ穴のムジナだろう。つまり、女子供をモノ扱いする、という点において。


オレの 女(娘)をドスケベな目で見るんじゃない!」
「あんだよ!オレが見て妄想するくらい構わないだろ。減るモンじゃなし。」


という「所有権」を巡る対決でしかなかったような気がする。


もう一つ。今回の騒ぎでマルティン・ニーメラーの例の詩が引用されるのをよく見掛けた。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。


この詩において、「規制反対派」は自分たちを詩の中の“共産主義者”、つまり最初の被迫害者に擬えているようだ。つまり、「他人事だと思うなよ。自分たちだってそうなるぞ」と。
しかしだね。実際には、「規制反対派」は“私”、に擬えられる存在なんだわ。
もう既に石原慎太郎によって攻撃された人々はいるのだから。
「ババァ」「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なる物」扱いされた人々。「人格あるのかね」扱いされた「障碍者」。「外国人」に対する態度。常に弱い者に向ける態度は一貫している。今回はそれがとうとう「漫画」に向いただけの事だ。
今までずっとそうした態度に出てきた石原慎太郎レイシスト達を「規制反対派」はどう扱ってきた?むしろ石原慎太郎にエールを送ってたんじゃなかったっけ?
にも関わらず、「外国人」であり、「女性」で、「戦争被害者」である、つまり多重に差別されてきた存在であった「従軍慰安婦」に向ける態度がそれだものね。
自分たちの姿が石原慎太郎の鏡写しにすぎない、って事に気づいた方が良いと思うよ。

*1:反対派全体を指しているわけではない。よってカッコ付きで示した