シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

わかりやすい、の危険性

ども。すっかりご無沙汰しておりました。シートンです。月イチのペースも難しそうだなぁ。


さて、先日のことですが、「研究を紹介するレジュメを作ってね(はあと)」と依頼されました。
以前エントリーにしましたが、あれと同じ感じ。


「A4一枚で、難しい用語は無し、絵を使って、素人でも判りやすくね。」


…もちろん、書き上げました。で、複雑な気分になったんですね。「わかりやすい」って言葉、最近やたら耳にするというか見掛けるな、と。有名なところだと、池上彰さんの「そうだったのか! 池上彰の学べるニュース」ですよね。終わってしまうけど。


テレビ朝日|そうだったのか! 池上彰の学べるニュース
http://www.tv-asahi.co.jp/manaberu/


グーグルさんで「池上彰 + わかりやすい」で検索すると結構面白い結果が出ます。皆、わかりやすさ、を求めているというか、当然視してます。「わかりやすい」説明。大事な事はわかります。
しかしですね。わかりやすい(わかりやすく)説明が理解に繋がるか、といえばそうとは限りません。わかりやすい説明とは、往々にして情報の多くを削っています。言い換えや比喩も多用します。恣意的な誘導だって可能です。その説明「だけ」で、わかりやすいと判断する人が、真偽を判断する事は出来ません。その背景となる膨大な情報を決定的に欠いているためです。
残念ながら、昨今、皆自信家なのか、基礎知識すらない状態でも「わかりやすい」説明さえあれば、自分は理解できる、と考えるようです。
「わからないのはわかりやすい説明をしない話者が悪い」という事らしい。もちろん、わかりやすさを欠いた説明は望ましくない。でも、全て話者に投げてしまって、自らの理解力不足を省みないのは問題です。


ハッキリ云ってしまえば、「わかりやすさ」を求める「素人」には何かを理解する事など不可能です。
私の研究であれば、優秀とは言い難いですが研究者として20年近く、人生の大半を注ぎ込んで学習・研究・試行錯誤し、ようやく見出した結果を、「素人」がちょっとやそっとで理解しようとしたって出来るものではありません。そんな事が出来るなら、こちらも苦労はしてません。


もちろん、発見の困難さと理解は必ずしも一致する訳ではないのは、ゼロという概念が小学生でも理解出来るのに対して、発見に夥しい歳月が費やされた事を考えれば、確かです。
ですが、やはり先達が確立してきた道程をまったく辿らずして、「わかりやすさ」に飛びついても、それは理解とは云えないのです。


もちろん、我々は「わかりやすい」説明に努めていくつもりです。それは自らの為でもあるから。
でも、知ろうとする側が安易に「わかりやすい」に飛びつくべきではありません。まして、わかりやすい説明でわかった気になってはいけない。そこで終わりにするのではなく、その先に進み、自分が「何が分からないのか」に気づかなくてはいけません。


わかりやすい説明で、そうだったのか、と想うのは終点ではなく、始まりです。わかりやすさ、に甘えるのにはご注意を。

わかりやすく〈伝える〉技術 (講談社現代新書)

わかりやすく〈伝える〉技術 (講談社現代新書)