シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

理解を求める必要などない

ご無沙汰しております。しばらく忙しくしておりましたが、その間、いろいろとありましたねぇ。
正直なところ、サクラやらクツやら献血やらオリンピックマラソンやら、消費税不況やら、次から次へとネタ三昧。草稿書いている間に、新たなネタが回ってくる回転すし状態だったので、なかなか手を付けかねておりました。
さて、こんな記事が掲載されておりました。

炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか
フェミニズムから学べること
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864

非常に判りやすい解説です。しかも、イラスト付きで問題を的確に指摘しております。ブックマークを見ると、まだこれほど丁寧に解説してくれている話に噛みつくクソが大量に湧いておりまして、頭痛がしてきます。
まったく理解に苦しむのですが、このクソどもはこれほど丁寧な解説に噛みついて、どうしようというのでしょうか?
ここに載せられている解説のバックボーンにあるのは、女性たちが社会に溢れる性的表現に感じている差別の指摘です。クソどもが攻撃すればするほど、これらの表現がまさに女性差別であることと、それに対するクソの鈍感さ、ギャップが浮き彫りになるだけなのです。
平たく言えば、皆ドン引き、ってことですね。
これほど丁寧に書いている解説ですが、一つだけ異論があります。

「行動する女たちの会」は、フェミニズムに反発する人たちが持っているイメージとは反対に、「法規制より論争を」と主張していました。フェミニズムの観点から表象を批判する側は「わいせつ」批判と自分たちの主張との差異化に気を配り、表象を擁護する側は自分たちが気づけていない差別的な文脈がないか謙虚に学ぶことで、私たちは「エロはゾーニングしろ」「これのどこがエロいんだ」という不毛なやりとりの先へと進まなければなりません。そうやって議論を通じて多くの人が合意できる落としどころを探っていくプロセスは、「表現の自由」が守ろうとしているものでもあるはずです。

 

私は、こうしたクソどもとの議論は不要だと考えます。時間と労力のムダです。なぜなら、彼らは判っていないわけではないのです。理解していないのではない。理解したくないのです。つまり、女性をモノ扱いしたい。
誰も個人的環境で、自分の願望を表現することを否定しているわけではない。問題は、不特定多数の人々の目に入る場所でどう表現されうるべきか、という点です。そうした場で女性をモノ扱いする表現を公開する、モノ扱いされる女性たちの目にも入るようにする、ことは、お前らをこう扱う(扱いたい)と宣告することにほかならない。
すでに理解しているが、その理解を拒絶する連中と話し合うことになんか意味があるでしょうか?(いいや、無い)

女性表象をめぐっていくつもの「炎上」、とは何か?
これは、女性が「理解」を求めるものなどではない。女性から、クソどもへの「宣言」です。
わたしたちのカラダはわたしたちのもの。オマエたちのものではない。という。
これが「表現の自由」の問題であるならば、それは表現が抑制される、のではなく、女性の言葉が抑制されていた、ということです。
ですから、クソどもが理解できるまで論争すべき、などということはありません。宣言はすでになされた。あとは、我々がどう受け入れるか、という問題でしかありません。
こう書いていますが、私だって理解が及んでいるかは怪しいものです。指摘されて気づくことも多い。ですが、指摘してくれた側を攻撃し、“論破”して得るものなど何もありません。こう書いて伝わりますでしょうか?まあ、伝わらなくてもいいですけどね。

では。
 

追記:この一連の話で、町山智浩さんが、ああした振る舞いに出るのは残念ですね。ミンストレルショーの問題点が理解できるなら、女性表現の問題も判りそうなものですが。