シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

「抑止力」など無い

公私ともにゴタゴタしておりまして、9月の連休に国会デモに参加するかな、と考えていたのですが、自公に押し切られてしまいましたね。連休になれば、私のように考えた人によって、デモの規模が膨れ上がると怖れたからでしょうか。びっくりするほどの警察配備でしたものねぇ。
これで、香港当局のデモに対する態度を非難できなくなったわけですが。


それにしても、今回の安全保障関連法案が示しているものは、「集団的自衛権」なんて控えめな表現に終始してますが、要は「先制攻撃を認める」事に他なりません。いろいろ制約条件があるように見えますが、憲法に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と明示されているのに「先制攻撃さえ可能」と解釈を変更するような輩が、状況をどう解釈するかなんて火を見るより明らかでしょうに。


外部には誤魔化しが通じませんから、


日本、70年続いた平和主義から方針転換へ
http://www.cnn.co.jp/world/35070715.html

憲法第9条国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄すると定めている。今回の安保法案はこれまでの同条の解釈を変更する形となる。

この変更により、日本は集団的自衛権の行使が可能となり、「自衛隊」として知られる日本の軍隊が一定の条件のもと、海外で戦い、同盟国を守ることができるようになる。


Japanese troops set to fight overseas for first time since World War Two
http://www.bbc.com/news/world-asia-33546379

Japan's military looks set to expand its remit, after new security laws were approved by a parliamentary committee.

Since the end of World War Two the country's constitution has only allowed the military to use force for self defence, so this could be a significant change of policy.

There has been vocal resistance to the legislation, with opponents arguing that the changes are unconstitutional.


のように、安倍政権の意図は見抜かれているわけですね。


それでも、自公共にバカの一つ覚えで「これで抑止力が向上し日本の安全に繋がる。戦争法案とはひどいレッテル貼りだ」的な事を云ってます。今回は、その「抑止力」なるものに目を向けてみましょう。


そもそも抑止力、とはなんでしょう。
良く言われるのが、「相手が攻撃を思い留まらせるのに足る戦力」です。つまり、相手が攻撃や理不尽な要求を仕掛けようとしたら、「おう、オラっちにケンカ吹っ掛けンなら覚悟しておきな、痛い目見るぜ。」と恫喝するための力 いささかステロタイプなチンピラじみてますが ですね。
一見、この考えは一般的常識に沿いそうな気がします。用心棒の考えもそれに沿ったものですけど、個人ならいざ知らず、国家に関してはこの常識は当て嵌まらないのです。


なぜ、抑止力の概念は国家には当て嵌まらないのか。
それは、(想定する二国間の)どちらも、相手は“攻めてくる”側であり、自分たちは“攻められる”側だ、と考えるからです。
相手の「抑止力」はすなわち「侵攻戦力」。ですから、相手の「抑止力」増強は「侵攻戦力」の増強にしか映りません。したがって、相手の「抑止力」増強に対抗し、自陣の「抑止力」を増強します。それは互いの軍拡競争の始まりにしかならないのです。


互いの「抑止力」のエスカレートの最もアホらしいサンプルは、米ソの核戦力競争です。
1945年、第二次世界大戦中にアメリカが核兵器開発に成功します。これに対してソ連もすぐさま核兵器開発に成功、後の冷戦、軍拡競争へ繋がります。このアメリカの核兵器開発後すぐにアメリカの核兵器開発者がソ連に核技術を渡した事が知られています。彼らは、彼らなりにアメリカがソ連を攻撃することを抑止するため≒戦力均衡のために核技術をソ連へ伝えた、と回想しています。
つまり、互いに「抑止力」としての核戦力だったわけですが、その後両国とも核戦力を増大させていきます。50年あまりで約2万発の核兵器の 人類を全滅に追い込み、核の冬を起こしてあまりある兵器、そんなものは使えやしないのに 保有を進めたわけです。核兵器相互確証破壊戦略が両国間の直接的戦争を防いだ、という評価もありますが、両国陣営とも周辺国を衛星国化して支配権確立を進めましたし、その軋轢による“代理戦争”の犠牲者にとっては、「核兵器が戦争を防止した」などと云われても「ふざけるな」というところでしょう。
さらには、積み上がる核兵器を互いに突き付けあうことによる偶発戦争の危険性は増大しました。冷戦当時には偶発的核戦争の危機を取り上げた作品が数多く作られました。抑止力競争はチキンレースみたいなものです。どちらかが「降りる」と云わなければ終わらない。それを決断したのがゴルバチョフでした。そのゴルバチョフの決断はソ連赤軍内部の保守派からは強い批判を浴びましたが、終わりなきチキンレースを終わらせなければ、核戦争となったかもしれません。
抑止力による均衡とは常に危ういものなのです。

さて、日本へ話を戻しましょう。
日本は現在中国の戦力増強に対して「抑止力」とすべく安保改正を行なった、と主張しています。しかし、中国側の戦力増強、を騒ぐなら、なぜ、戦後間もなく再軍備を行なった日本がどう見えたのか、について考えが及ばないのでしょうか。ましてや、日本は中国を侵略していますし、国共内戦で国民党軍への加担まで行っています。もし、中国の戦力増強が危険だ、と主張するなら、自分たちが戦後戦力を再保有し増大させてきた結果であり、つまり中国側の「抑止力増強」ではないか、と考えるべきなのです。
日本が安保改正によって増大させた「抑止力」は中国側に「侵攻戦力」の増大に映ります。彼らは対抗すべくさらに“「抑止力」としての”軍拡を進めるでしょう。それは、地域安定化に寄与するどころか偶発戦争の危険性を増やすだけです。

日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族

日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族

付け加えるならば、アメリカはイラクに対して「大量破壊兵器による脅威」を除くとして侵攻しています。「平和・防衛」のために侵略という倒錯した態度に当時世界中で批判が集まりましたが、アメリカは構わず侵攻、その結果は現在に至るまで中東を不安定化させるものでした。そのアメリカの侵攻に“賛成”した数少ない国が日本です。そして、イラク戦争後にアメリカ・イギリスの指導者が反省や謝罪しても日本は総括も反省も謝罪も未だしていません。
もちろん、日露戦争でも「日本を守る」と称して朝鮮半島中国東北部に侵攻していますし、第二次世界大戦でもアジア各国に侵攻したにも関わらず「自衛戦争だ」とのたまう連中が未だにいる状況です。
そんな国が「防衛のための 抑止力のための戦力 安保改正」と云っても誰が額面通りに受け取るでしょうか?
日本はあまりにも自分たちの行いに無頓着すぎるのです。


互いに相手を悪魔化して対抗戦力を増大させるのは愚の骨頂であることを示しましたが、実は政権内部にいるような連中はその愚かしさを判っています。膨れ上がる互いの不信がどれほどの惨禍を生むかについては鈍感ではありますが。


では、なぜ彼らは国内で仮想敵国による脅威を煽るのか。
それは、外部の脅威を煽るのが、国内政治の不満から目を逸らすのに極めて有効だからです。失政を相手国のせいにしておけば良いし、内部の結束を固める事も出来ます。また、“非常時”として人権に反するような行いさえも正当化出来る。
そのへんは、ナオミクラインが「ショックドクトリン」として取り上げていますね。

9.11テロの後、それまで低迷していたブッシュ政権の支持率は大きく上がりました。そして愛国者法のような人々の権利侵害に繋がるような法律さえ通し、イラク戦争に突き進みます。こうしたことが“外敵による危機”には可能になるのです。対外脅威を扇動するのは政権にとって最も安易な政権維持方法なのです。ですから、この手口は中国側も使っているわけです。このような両国政権の挑発と扇動の共同作業に我々が乗っかる必要はないのです。

では、どうしたら「恐怖の連鎖」から抜け出せるのか。ちょっと興味深いエピソードを紹介します。


映画「ブラックホークダウン」はソマリアアメリカが軍事介入した時のエピソードを基にした話*1ですが、登場するソマリア人がとにかくゾンビのような扱いでした。モガディシオ市街地から抜け出そうとする米軍兵士に群がり攻撃する。それを薙ぎ倒す米軍の攻撃。そこには彼我の交流など無く、ただコミュニケーションの否定を象徴していました。

米軍の挙げた「戦果」は凄まじいばかりで

ハウ*2はそれが腹立たしかった。自分たちは、受けた損耗以上の損耗を相手にあたえたのだ。酷い窮地にほうりこまれて、生き残っただけでなく、敵を打ちのめしたのだ。敵の推定死者数はわからないが、数字はどうあれ、アメリカ史上もっとも一方的な戦闘のひとつだとハウは考えていた。

と記されています。戦闘の目的や成果は殺害数かよ、とげんなりしてしまいます。
ところが、原作にはこのような話があったのです。

誰しもが、また街に行けという命令が出るのをおそれていたが、持てるかぎりの武器と装甲と弾薬を用意して出発する覚悟はあった。メイス*3はなにも持たずに出ていった。彼は、生きていようが、死体になっていようが、自分の同胞を捜しだすつもりだった。メイスを見たレインジャーは、彼の勇気と沈着さに畏怖の念を抱いた。

一見、危険に見える行為ですが、単身完全武装モガディシオ市街に潜入すれば間違いなく短時間であの世行きだったでしょう。彼が無事に戻ってこられたのは“丸腰”だったからです。彼はそれを充分に承知していました。だから、丸腰で潜入したのです。もちろん、相応のリスクを負う覚悟と度胸と慎重な計画が必要ですが。
ほとんどゾンビにしか見えず、暴徒の集団として国際社会に扱われるソマリアの人々ですが、高野秀行は「謎の独立国家ソマリランド」で、そこに我々の想定するのとは若干違うかもしれないが、社会が成立し人の営みがあることを活写しています。こちらが相手を悪魔化し、強圧的に望めば相応の態度で返されます。相手を人として認めて害意の無い事を示せば、やはり相応の態度で接することが出来る、という好例でしょう。

謎の独立国家ソマリランド

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あなたにとって、街行く人は敵ですか?武器を、抑止力を持たなければ安心できませんか?
そうそう、個人に「抑止力」が与えられ、それが“保証”されているアメリカって、犯罪が少ないんでしたっけ?アメリカで一番多く起きる銃器犯罪は“身内に向けたもの”です。

個人レベルだけでなく、国家でも同様の事が云えます。


ドイツとフランスは積年の敵国であり、過去何度となく戦火を交えました。日本と中国など比ではありません。第一次世界大戦第二次世界大戦時も両国ともに多大な犠牲を払ったのです。ですが、現在、両国国境において互いの戦力は相手に向けられてはいません。そのように信頼関係を築くことだって可能なのです。

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失われた土曜日―1944年6月10日虐殺の村オラドゥール (シリーズ 歴史を語る)

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日本と中国で「抑止力」に頼らなければ「防衛」出来ない、という「自称現実的」な対応など、そうした現実の前には狭い了見でしかありません。先例はいくらもあるのですから。
ですから、中国の脅威に対抗する抑止力 というまやかしから否定しませんか。我々は中国を通して自身の姿に怯えているだけです。彼らは日本の写し鏡なのです。
相互軍縮を進めるなら、まず提案し行動するのは日本の側にしましょう。その勇気こそが、誇らしい素晴らしい日本にふさわしいのではないでしょうか。
では。

*1:原作はノンフィクション

*2:作戦に参加したデルタフォースの一等軍曹

*3:作戦に参加したデルタフォースの三等軍曹