シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

池田信夫氏、壊れる

黙然日記さんみたいなタイトルですけど、そう表現するしかない事態に。
主張の根拠を崩されて、ガキみたいなあがきっぷり。とうとう、作品の表現にケチをつけることに。


大江健三郎という「嘘の巨塊」
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/5293d396b69a6498f9edb72581480fc4

つまり「罪の巨塊」とは「死体」のことだというのだ。まず問題は、この解釈がどんな辞書にも出ていない、大江氏の主観的な「思い」にすぎないということだ。

“辞書”ですか。いや、きっとそうでしょうね。ルポやドキュメント、論文などで辞書にも一般に斟酌されていない言葉が利用されたら困りますが、“小説”ですよ?「沖縄ノート」って。
「全ての小説は私小説である」と言った人がいたかどうか、定かじゃ無いですが、「小説」じゃマイ定義でも何でもありでしょうよ。そんなアホな事を云ったら「時計仕掛けのオレンジ」なんてどう扱ったら良いんですかね*1

沖縄ノート』が出版されてから30年以上たって、しかも訴訟が起こされて2年もたってから初めて、こういう「新解釈」が出てくるのも不自然だ。

たぶん、「フィクション」を元に「訴訟」する人が居なかったからじゃないですか?文学的表現なんて、著作者と読者で解釈が異なるなんてことはおかしな事でも何でも無いわけで、大概はその齟齬を埋める努力なんてそんなヤボな真似しないでしょう。

これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう。

これは、冗談で言ってるんですかね?池田氏の“文学的表現”であると信じたいところですが、「国語の試験」って、それは何の意味があるんでしょうか。
すっかり清水義範の「国語入試問題必勝法」を思い出してしまったよ。国語試験における“作者の述べたいことは次の何か”のような問題のナンセンスさを描いた傑作だけど、そんな無機的な解釈を超えたところに文学的表現の面白さがある、と思うんですけどね。
前後の文脈と併せてみると、単純な解釈においても池田氏の分析はおかしいとは思う。

それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。


いや、「屠殺者」は「アイヒマン」と並んで登場する事を考えれば、まさに「日本軍のタテの構造」を指すのは明らかだと思うが。なぜって、「屠殺」は個人の嗜好で行う行為じゃ無いものね。社会の要求の遂行者が「屠殺者」。(ナチスの)命令に従っただけというアイヒマンと同じ構造だもの。
日本の、日本軍の、戦争における心得として徹底されていたのが「生きて虜囚の辱めを受けず」であり、その軍なりの要求の遂行として“自決”があった。その暗喩として「屠殺者」はピッタリだと思う。
池田氏は、逆に「殺人者」と書かれていないのは何故か、に目を向けるべきだったろうに。


ま、グダグダ小説の表現を巡って議論するほどヤボな話は無いんで、単純に池田氏は「あたまがわるい」としか云いようがない。今後、いくら専門分野について語ってみたりしても、読んでくれるのはネトウヨだけになるだろう。

国語入試問題必勝法 (講談社文庫)

国語入試問題必勝法 (講談社文庫)

*1:たぶん、他にもマイ定義な表現なんて幾らでも文学界には転がってるだろう