有老人 含哺鼓腹 撃壌而歌曰
日出而作 日入而息
鑿井而飲 耕田而食
帝力何有於我哉(老人有り、哺を含み腹を鼓し、壌を撃ちて歌ひて曰はく
日 出でて作し 日 入りて息ふ
井を鑿ちて飲み 田を耕して食らふ
帝力 何ぞ我に有らんや と)
さて、パーマカルチャにおける倫理だが、昔小学生に”環境を守るためにどうしたらいい?”と質問したことがある。いろいろ答えてくれた中にこういう答えがあった。
「みんなが自分の事ばかり考えずに、互いの事を思いやって水や電気の使いすぎに気をつけて、ゴミを出さないようにすればいいと思います。」
うん、付け加えることはないね。完璧だ。君の云うとおりだよ。
でも、それにはどうしたらいい?
この子が答えてくれたのはパーマカルチャの倫理そのもの、というか環境保護を訴える団体や共同体の倫理そのものだろう。それどころか、この倫理をまったく間違っている、と否定する人間は世の中にはいないんじゃないだろうか。みんな少なくとも考えだけはそう思っているのだ。実行できないだけで。
そう、倫理面ではみんな何が問題かなんて判っていることなのだ。水も電気も湯水のように使いましょ、後は野となれ山となれ、なんて堂々と宣言するヤツは滅多にいない。少なくとも表立っては。
だから、必要な事は倫理などではない。必要なことは、
「どう振る舞ったら倫理をクリア出来るか」
という具体的なスキルなのだ。もっと云ってしまえば、倫理を意識しない人が普通に振る舞っても、達成できてしまうような社会的仕組みこそが大事なのだ。
倫理でガチガチに固めようとすれば、同じ見解を持つ者だけで集まらなくては実現できなくなる。そうすればその共同体は再び崩壊するだけだ。必要な事は現在の社会的仕組みを変え、人々の意識が変わらなくても済む、または徐々に変えていける行動指針と実現手段こそが自分の望むものなのだ。
そのためのツールというか総合科学がパーマカルチャだと考え、学ぼうと思ってきたわけで、そのパーマカルチャ講習で倫理を説かれてしまうと、なんだかなという思いがする。
もちろん、倫理が無くていい、と云うわけでは無い。順番としてはスキルを体得し、その上で倫理を考えていく事が自然じゃないのかな、と思う。
で、この部分こそがパーマカルチャを広める鍵、という風に感じる。
倫理を説いてしまえば、その倫理についていけない人間はそれでおしまい。倫理には共感しても、実現方法を持たなければ行動に踏み切らないだろう。具体的なスキルを持たない人間が倫理を徹底するのは大きな克己心を必要とする。克己心を強要されてはたまらない。
LoHAS(ロハス)という言葉が流行っている。スローライフという言葉も定着した。自分はあまりLoHASには共鳴できないが、それでも、言葉を広め認知させる手法には感心する。あいまいな概念でありながら、行動はかなり具体的だ。スローライフも同じ。スローライフに秘められた意味はパーマカルチャとも重なり合う持続可能な社会を目指したものだ。だが、「100万人のキャンドルナイト」とか「打ち水大作戦」、よく言えばフレンドリーな、悪く云えばキャッチーな行動は誰にでも出来てわかりやすい。もちろん、それだけに留まれば意味は薄いが、これが契機になる場合もあるわけだ。
「100万人のキャンドルナイト」
http://www.sloth.gr.jp/library/others/candlenight.htm
「打ち水大作戦」
http://www.uchimizu.jp/
パーマカルチャを広めるのに必要なものが何か見えては来ないだろうか?
長くなりすぎたので、残りの講義録と感想はまた後日。