シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

崖っぷちのポモ

ポーモ、ポーモポモ、デリダの子♪ (略) まんまる、おなかの男の子♪


以前書いたエントリーの成り行きが興味深かったので、エントリーを追加ました。


田母神氏が問題なのは、文民統制でも政府見解に反するからでもない
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20081111/1226411427


コメント欄にてid:furukatsuさんがこんな事を書かれています。

デマをまきちらす権利はあります。
というか、そもそも何がデマなのか、いかなる規準で誰がどのような権限で判断するか完璧に決定することが出来ない以上、自分が気に入らなければなんでもデマと強弁できますし、なんでもデマでないと強弁できます。
そんなことを理由に言論の自由を制限されるのはあまりに不合理です。
言論の自由という権利そのものが制限されるのは、他者の権利、具体的な名誉や信用その他を毀損される場合や、その他ごく限定された場合のみです。つまり、明確な権利侵害が無い限り制限されてはならないのです。
たとえばあなたの勝手な恣意(南京だろうが二次大戦だろうが誰も現場を見ていませんし、嘘であることの証明はできません)で言論を制限されるのであるならば、為政者も同様なことが可能でしょう。
もちろん、私は第二次世界大戦における日本軍の蛮行があったことを認めますが、それがあったと考え史学の観点から証明することと、言論の自由は関係がないのです。

もちろん、一般的な歴史学の観点からは南京において何かしらの虐殺事件はあったということは認められるでしょう。しかしながら、それはすべて胡蝶の夢だったと言われれば、歴史学の問題ではないでしょう。歴史学という学問体系そのものが間違っているのだ、と強弁することも不可能ではありません。〜は事実である、ないし事実でないという判断は、つきつめれば主観に依存せざるをえません。
私は、批判に対して反論することはありますが、批判そのものをするなとは言えません。
たとえばフロギストンの存在、エーテルの存在、天動説、創造説を私は間違っていると考えますが(天動説は微妙だけど)、だからといってそういう主張をしてはならないと言うことは出来ません。出来ることはその主張が間違っているという反論のみです。
田母神氏の立場などを考えれば不適切な発言だったことは認めますが、それは一般的にデマを飛ばすなということにはならないと考えます。
私達が今信じている学問体系や、そもそも基礎をなす言語や論理が、つきつめるとなんとなく確からしいという主観に依存せざるをえない以上、デマがまさにデマであるかは確からしさを積み上げることはできても、完全に評価できないのです。

(一部強調:シートン
furukatsuさんの「言論の自由」に対する思いはヒシヒシと伝わってきますが、若干、方向がずれているように感じます。
まず、デマ、というものに対する脇の甘さです。デマゴーギー(デマ)とは、単にデタラメ、ウソだけの事ではありません。“扇動”という要素を持っています。はてなキーワードにも「悪意を持って広められる噂話」、「何らかの意図を持って流布される偽情報」と書かれていますね。まさに、「他者の権利」、「具体的な名誉や信用その他を毀損する」意図をもって流布されているのがデマ、なのですよ。
もちろん、単に悪意程度じゃ大したことは無いでしょう。
タモさんの駄文程度は、2ちゃんねるじゃ珍しくも無いですし、よーめん氏や瀬戸氏なども似たような事をやっていますが*1、単なるバカ、と笑い飛ばせば、もしくは指摘すれば済む程度のものです。
こうしたものは、「ヨタ話」と呼ぶべきものです。デマでさえないのです。
ですが、タモさんの立場でなされ、それも「真の近現代史観」と銘打って、マスコミに宣伝まで行われる「論文」となれば「ヨタ話」では済まない。それは、事実に基づかない限り「デマ」としか言い様が無くなるのです。ですから、それに類する例を挙げたわけです。


それから、もう一つは今話題の「ポストモダニズム系リベラル*2」をなぞったような相対主義です。


歴史認識問題についていくつか
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html


私がこのような「絶対的真実はない」とか「全ては主観に依存する」というような輩に対して取る行動は簡単で、「オレは今からオマエ達を殴る!(山下真司風に)」です。
怯える必要なんてありませんよ。ポモ・ワールドでは全てが主観に依存して絶対的真実が無いのなら、殴られたことも痛みも「胡蝶の夢」で無い保証なんて無いわけでしょう?加害者や被害者がいたのかいないのかも「突き詰めれば」判らないわけです。全ては自分の妄想でないとなぜ云えます?
ですが、実際にはそんな言説とは関係なく、殴られれば痛いし、加害者も被害者もいるのです。
我々の世界はその水準で物事を捉えていいのです。歴史学も同じ事です。以前のエントリーでも述べた事ですが、加害者の証言(日記も含む)、被害者証言、目撃者証言の揃った事件を「あったかどうか断言する事は出来ない」などという事は無理があるのです。


もし、「定説」が違う、と主張したいのなら、それに見合うだけの「論拠」を示さなくてはなりません。ポモ・ワールドは知りませんが、少なくとも物理学の世界ではそうです。
フロギストンの存在、エーテルの存在、創造説、どれもそれを主張したければ、その論拠を示さなければ相手にされないのです。これらの駄法螺を論文誌に投稿しようとすれば間違いなくピアレビュアによってリジェクトされます。論文誌に掲載される、事はそれなりに影響力があります。ですから「デマ」を飛ばす事は許されないのです。
「天動説」は、「地動説」と座標を読み替えただけだ、と数学的に証明出来るが故に、一般的なイメージとは違って間違っていたとは見なされません。


タモさんはそれだけの根拠を示し、論理的に矛盾の無い推論を行う事が出来ませんでした。彼が飲み屋で「ヨタ話」を吹聴する分には、眉をひそめるにせよ、問題視する事は無かったでしょう。ですが、件の経緯によって「デマ」となった以上、それは問題視されるのは当然なのです。


付け加えるなら、私が問題は「文民統制」でも「政府見解に反するから」でもない、と述べた理由は、furukatsuさんの懸念

たとえばあなたの勝手な恣意(南京だろうが二次大戦だろうが誰も現場を見ていませんし、嘘であることの証明はできません)で言論を制限されるのであるならば、為政者も同様なことが可能でしょう。

の「為政者も同様のことが可能」の部分に該当します。
ようやくブッシュがイラク戦争は間違いだったと認めたわけですが*3


ブッシュ大統領「戦争の心構えなかった。誤情報が痛恨」
http://www.asahi.com/international/update/1202/TKY200812020318.html

ブッシュ米大統領は1日放映されたABCニュースのインタビューで、来年1月で8年間に及ぶ自らの在任期間を振り返り、「大統領の職にあった中で、最大の痛恨事はイラクの情報の誤りだった」と述べた。イラク戦争開戦の大義とされた大量破壊兵器が見つからなかったことを、今さらながら悔やんだ。

相変わらず、他人に責を擦ってます。で、戦争に踏み切る時点で開戦に反対を唱えた軍人がいたら*4、彼らは文民統制に反する、として処断される(された)わけです。政府見解に関しても同じです。ですが、後に判明したように、というか再三指摘されていたように、「政府見解」の方が間違っていたわけです。それは国を危うい方向へ導く可能性がある。であれば、「文民統制」や「政府見解」を根拠に人を処断するのは正しいと云えません。事実であるかどうか、それを基準に追求されるべきなのです。
与党議員が追求において「文民統制」「政府見解」を持ち出したのは、むしろ彼らの本音もタモさんに近いからでしょう。問題を形式論に留め、「田母神論文」が事実に則って書かれていない、と公式な形で認めたくはなかった、そうではないかと推測します。
であればこそ、私は問題を論文の中身に焦点を当てるべきだと考えたわけです。


それにしても、デリダやらポストモダンやら面倒くさい。何か以前指摘された「人文系を見下す」視点を持ちそうだ。

*1:よーめん氏はクーデターまで煽ってますが、誰も相手にしていません

*2:参照: http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20081202/p1

*3:日本政府も誤りを認めろ、と思う

*4:確か、何人かいたはず