シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

環境対策の必要性

「だから、なにがいいたいのだ?環境のことなど気にしなくてもいいということか?」
「ちがう。もちろん。そんなことはない。」
「それなら、なんだ?」
マルコムは咳きこみ、遠くを見つめた。
「要するに、こういうことだ。危機に瀕しているのは地球じゃない。人類のほうだ。人間にはこの惑星を滅ぼすだけの力はない。救う力もない。しかし−自分たちを救済する力くらいはあるかもしれない・・・・」

         ジュラシック・パーク マイクル=クライトン 早川文庫


環境問題がなぜ重要なのか。「持続可能な社会」の構築が大事なのだろうか。
自分は、このまま温暖化が進んだとしても、人類という種が絶滅するとは考えてはいない。人間は絶滅するには強力すぎる種であり、適応能力も他の生物種の比ではない。なにせ極地から赤道直下、砂漠から湿地、山岳地から島まで、およそ地球上のあらゆる地域に生活しているのだ。この生息範囲の広さは他に類を見ない。この生息範囲の拡大は、近代文明以前からの事であり、おそらく現代文明が環境悪化に伴って崩壊しても、それぞれの地域で人類自体は生き延びていくだろう。
では、なにゆえに環境問題に取り組むべき、と考えているのか。

それは「人類が生み出してきた文明社会そのものを失わせたくないから」である。


現在の文明を支える知識、技術体系は極めて複雑多岐に及んでいる。
一例を挙げてみよう。
携帯電話を利用するには、ボタンをちょっと押すだけで済む。子供からお年寄りまで使うことが可能だ。だが、携帯電話を作るにはどうしたらよいか判るだろうか。
携帯電話自体は、高度な半導体技術の集積体である。つまり、半導体作成技術、それを納める筐体の精密加工技術、充電池とその作成技術、多岐に渡る高度技術を利用して初めて携帯電話になる。もちろん、それだけではない。電波の管理、信号変調・復号技術、基地局の管理、ソフトウェアー関係、メンテナンス、サービス提供、etc。さらに、そのそれぞれにベースとなる技術が存在する。例えば、ステンレスねじ一つ取っても問題だ。ステンレスの成分、鉄、クロム、ニッケル、それらの鉱石を見分け、採掘し、精錬し、混合し、合金化し、鍛造、切削して初めてねじになる。小さな部品でさえも、支えているのは裾野の広い技術体系なのだ。そのどれが欠けても携帯電話にはならない。携帯電話を支える技術の一部に精通した技術者は多数いる。しかし、全部の技術を統合的に把握している者はいない。それでも、携帯電話が存在し運用できるのは、知識や技術が個人ではなく組織として管理されているためである。
これは、携帯電話ばかりではなく、現代社会を支えるアイテムやシステム全てに云えることである。我々が所有している技術体系のほとんどは、既に個人が管理、運用できるものではない。また、個人レベルが望んで作成することも出来ない。社会構成者の多数(市場と呼ぶ事も出来る)が要求し、そのコストを転嫁することで成り立つのだ。
平たく云ってしまうと、市場が望めば製品やサービスが登場するが、望まなければ登場しない。ということ。
環境悪化が進めば、現在の文明社会を支えることは不可能になる。先進国で高度技術を支えるコストは際限なく上がる。生存空間が狭まり、食料生産能力も減少する。一部の(特権的な)人間は、しばらくは文明生活を続ける事が可能だろうが、高度技術社会が市場によって成り立っていた事を考えれば、時間の問題でしかない。おそらく、そうなってからの人間の持てる技術は、近代文明以前の知識レベルでしかなく、「ハイテク」は「神話や「呪術」と同義になるだろう。

トムソーヤやハックルベリーでおなじみのマーク=トウェインは「アーサー王宮廷のヤンキー」というSFを書いている。どういうわけか19世紀末から中世のイングランドにタイムスリップしてしまった男が、技術者としての自分の知識と技術を生かしてアーサー王と円卓の騎士たちを助け、理想的な国を創ることに邁進する、というストーリーだ。
主人公は、魔術師マーリンを叩きのめし、騎士を役立たずにし、古い制度も身分制度も解体するために、近代技術をキャメロットに持ち込んだ。
主人公はあっさりと独力でやってのけるが、そんな事は可能だろうか。

逆の視点から捉えたのがポール=アンダースンの「過去へ来た男」である。バイキング植民当初のアイスランドにタイムスリップしてきた20世紀のアメリカ兵。彼は工兵であり、自分の居た世界の技術を中世アイスランドに再現しようとするが、まったく成功せず変わり者の(魔術をしくじる)異邦人として扱われ、あげくに殺されてしまう。

マーク=トウェインは古い因習や迷信を嫌っていたから、アーサー王の時代を舞台にして近代啓蒙された考えと呪術や迷信のある古い考えを対比させる事に目的があった。実際に、そのような近代技術を徒手空拳で再現できるかどうかは問題では無かったのだろう。同様の何でも無いところから、高度な技術を造り出してしまう、というのは、そのころのSF?の特徴でもある。それが近代啓蒙社会の意気込みを示していたのかも知れない。
ポール=アンダーソンはそうした時代背景とは無関係に書いている。
何も無い状態から高度な技術を自力で造り上げられるか?まったく不可能である。知識として知っているだけでは、「おとぎ話」と変わらない。

現在の文明が崩壊し、幾年月を経て、再び文明は起こりうるだろうか。
予想される文明崩壊時の文明レベルを過去に当てはめて現在を比較すると、1000年ほどの差となるだろう。つまり、中世レベルの技術なら個人で把握可能なのだ。そこから1000年の後に再び文明を起こすことが可能だろうか。おそらく不可能だろう。
近代文明の勃興期には、極めて効率の悪い熱機関がその発展の原動力となった。それらは石炭や石油を熱源としている。しかし、もはや石炭も石油も、文明レベルが下がれば入手不可能な場所にしか埋蔵していない。再び「産業革命」を起こすことは不可能なのだ。

こうしてみると、逆説的ではあるが「現代文明」を守るためには、「現代文明」と決別する必要がある。つまり、月並みなセリフだが「持続可能な社会(技術)」へのシフトする必要があるのだ。それは、現代文明の延長にありながら、現代文明の欠点を克服し、伝統技術を継承して行かなくてはならない。
全て、自分たちの得たものを失わないための方策なのだ。
自分たちに迫っている危機に目を瞑り続けても、伝統技術継承者にとっては大差はない。むしろ、現代文明にドップリと浸かっている人こそ真剣に考える時である。

ジュラシック・パーク〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー?マーク・トウェインコレクション (16)