シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

オリンピックは誰のもの?

先日、昼食で街中のネパール料理店に入りました。最初に入ろうとした店は潰れていました。先月までは開いていたのですが。さて、客は私だけだったのですが、店内のテレビではオリンピックをやっておりました。オリンピックは見るつもりもなかったのですが、店員たちも眼をやる様子もない。そのうち、私以外の客、おそらくネパール女性2人が入ってきました。店員たちと会話を始めましたが、やはりテレビに目をやることはありませんでした。
誰も目をやらないテレビからアナウンサーの絶叫が聞こえる、というシュールな状況に、ふと考えることがありました。
この店の店員たちをはじめとする在留外国人*1にとって、東京オリンピック、は何なのだろう。彼らは、このオリンピックだらけのテレビを見ることはあるのだろうか。そもそも、見て楽しめるのだろうか。
在留外国人の人口は、約290万人(2021年3月末時点)だそうです。すでに人口の約5%に達します。

 

令和2年末現在における在留外国人数について
http://www.moj.go.jp/isa/publications/press/13_00014.html

 

それほど彼らの存在を必要としながら、しかし、その存在割合に比べると不思議なくらい不可視化されています。彼らを社会の成員として認める様子もありません。彼らの存在など視野にない、というのは、オリンピック番組にも現れています。それは、スポーツの素晴らしさを見せるものではなく、ただただ、“スゴイ日本(日本人選手)!”を称揚するだけになっているわけですから。日本人選手の出ない(もしくは上位成績が狙えない)競技は無視されています。そこにスポーツを楽しむ様子など見えません。アスリートや競技の魅力を中心にしたら、在留外国人にとっても楽しめるものになるでしょう。しかし、ひたすら日本人選手の応援、に過ぎないとしたら、彼らの興味を引くことは出来ないでしょう。
IOCは「多様性の尊重」を掲げ、そして、開会式(私は見ませんでしたが)では「多様性」の押し売り状況にあったと聞きます。なのに、テレビ報道はベーシックな多様性、多国籍の人々、への配慮など微塵ほども考えなかった、というわけです。いかにも日本らしい光景です。
今回のオリンピックは今まで糊塗してきた内実を見せ付けるものとなりました。これでも、オリンピックはやってよかった、で終わるのでしょうかね。それは誰にとってよかった、のでしょうか。
本当にオリンピックは誰のためのものなのか。

オリンピックが始まる前のことではありますが、安倍前総理が、「オリンピック開催を支持しない奴は反日」というようなことを述べたことが話題となりました。逆にオリンピック開催を支持する人は親日?ということなのでしょう。

 

安倍前首相「五輪に反対する人は反日的」またまたトンデモ主張
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/291434

 

そして、オリンピックの開催期間中に自民党の河村議員から「選手の活躍で自民党の支持が上がる」ような意見が堂々と述べられました。結構、スゴイ話ですが、ベタ扱いでした。

 

選手の活躍「政権に力」 自民・河村氏「五輪なければ不満は政権へ」
https://mainichi.jp/articles/20210731/k00/00m/010/281000c

 

自らの支持を固めるためにオリンピックを開催した、ということであり、つまるところ招致・運営に掛かる莫大な費用は、自民党の支持固めのためだった、という告白でしょうか。オリンピックというものを媒介として、彼らの本音が見えたのは良かったのか悪かったのか。

それでも、なお「ともかくも開催してしまったからには、感染観戦応援しなくちゃ」なのでしょうか。私には理解できません。
では。

*1:「ガイジン」とか「外国人」という云い方は嫌いだが、ここではそう称することにする