シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

マッスルソウルは傷つかない

なんか盛り上がってる“マッチョ”論争。まぁ、リベラルを標榜する自分としては、まったく同意出来ないけれど、ちょっと面白かった部分を取り上げる。


・2010年、マッチョ主義によって日本社会のとてつもない大改革が始まり、人々の生活が根底から変わりはじめた
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080302/1204438491


当人もネタとして扱ってるっぽいのだけれど、前半の教育の部分が面白い。

また、マッチョの基本は、自分で決断し、自分で実行し、自分で責任をとることである。このため、必然的に、教育の裁量権の徹底的な現場委譲が進んだ。
(略)

たとえば、公園にあるコンクリートと玉石の岩山に幼児がよじ登って降りられなくなり、泣き叫んでいたとしよう。
この場合、親は、単にその幼児を抱きかかえて降ろしてはいけない。
幼児の手や足を玉石に一つ一つ導きながら、自分の力で降りていくやり方を教えるのだ。
泣いてばかりでは何も解決しないことを教え、不安と恐怖を克服し、現実に対処するための具体策をひねり出し、実行する精神をたたき込むのだ。
そして、下まで降り立ったら、良くやったと褒めてあげるのだ。

ここで、子供たちは、意思決定メカニズムというものやっかいさを体験する。
自分たちの要求が正式に承認されるためには誰と誰の賛同が必要で、あらかじめ誰と誰に根回ししておかなければならないのか、その意思決定プロセス全体を把握しないと、場当たり的に根回しするだけでは、自分たちの意見が押し通せないことを学ぶ。
結局、教師だけでなく、親たちの中のキーパーソンにも、あらかじめその要望の主旨を伝え、理解を求め、妥協点を探るなどの根回しをする。
当然、これらは、文化祭だけの話ではない。
運動会、弁論大会、各種部活動の運営も一事が万事この調子である。

このあたりの教育って、実は戦後教育の基本的あり方だったし、現在でもちょっとしたところではこの手の試みが行われている。だいたい、「ゆとり教育」って元々はこうした取り組みを意味していたのだから。
自分も子供相手の野外活動ボランティアで、この手の取り組みに加わったりしている。格段に珍しい、力を入れるような話じゃない。
特に、他の先進国の基礎教育では、この手の取り組みは極々一般的ですらある。以前に海外の活動家が団体スキルを体得し、うまく活用する事について述べたけれど、そこでは当たり前の学習なんだよね。


学校で団体交渉スキルを教えよう
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20071130/1196407463


で、面白いのは、その手の教育を受けた人々は“マッチョ”にはならない、ということだ。むしろ、“マッチョ”とは程遠い人間に成長するのである。海外の活動家、フォーラム、NGO、の創設者や加わる人々を見れば判る。類い希なる構想力と行動力、その裏打ちになるスキルを呼吸をするように学んだ人々は、世界を又に掛けて“マッチョ”と対峙し闘うのである。オックスファムやそれこそグリーンピースでもいい。
日本だって、自分はピースウィンズ・ジャパンと創立者大西健丞の行動力を高く評価しているが、彼らの身に付けてきたのはそういう教育である。


オックスファム・ジャパン
http://www.oxfam.jp/


Greenpeace home
http://www.greenpeace.or.jp/


国際協力NGO ピースウィンズ・ジャパン|peace winds Japan
http://www.peace-winds.org/


考えてみれば、そりゃそうだ。自助努力を叩き込む学習とは、同時に自助努力の限界を知る学習でもある。自力の限界を見据えた時に集団での力に思い至るわけで、それを大事に活用しようとすれば、独りよがりな態度は選択肢に入ってこない。“マッチョ”な学習とは、“マッチョ”を造り出さないわけで、それはそれでいいのかもしれない。ま、from氏の事だから、ネタ、で済む話なんだろうけど。


もう一つ。

そして、幼い頃から、ネイティブから英語の英才教育を受けて育ったマッチョたちが日本企業の尖兵として、世界中に進出しはじめると、世界は、このちっぽけな東洋の島国に、再び日が昇りはじめたことを確信した。
しかし、一方で、大量の弊害が生まれた。
マッチョが日本の企業に浸食するにつれ、ヌルい人材がつぎつぎに駆逐され、大量の失業者が生まれたのである。

マッチョを量産すれば、世界中もそれに習うだけだろう。で、マッチョに満ちあふれ、マッチョが相撃つ世界って、需要は創出できるの?


マッチョ、それも、世界で争われるマッチョの熾烈な戦いの勝利者、“マッチョ・オブ・マッチョ”が牛耳る世界では幾ら高い生産性を誇っても、それを買うことの出来る人々はごく少数だ。
その少数の市場をまたマッチョ・ファイトで奪い合うとすれば、市場はさらに小さくなる。もちろん、人々が生きる必需品には需要があるだろうけど、そうなれば、その世界はマッチョというよりは、ウェルズの描く「タイムマシン」の世界だ。ま、エロイはマッチョとは似ても似つかぬ存在だが。


別の話も。
ま、経済学はオレの興味の範疇外だが、歴史に照らし合わせりゃおかしな結論を導き出しているかはわかる。以下のエントリーがその象徴。


努力しても決して幸せになれない理由(FIFTH EDITION)
http://blogpal.seesaa.net/article/88037108.html


via:・もういいかげん、自らの邪悪を資本主義の神を持ち出して正当化するのはやめて…。(ロリコンファル)
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20080304#p1

グリーンスパンの自叙伝「波乱の時代」にこんなエピソードが載せられている。下巻の13ページからだ。

天然資源が豊富だと、「オランダ病」と呼ばれる問題をかかえて経済が低迷する危険がある。
(中略)
オランダ病にかかるのは、資源の輸出が好調になり、その国の通貨が高くなる場合である。通貨高になれば、他の輸出産業は競争力が低下する。
(中略)
「10年後、20年後には分かるだろう。石油が我々の破滅の原因になることが」。この言葉は、ベネズエラの石油相で石油輸出機構(OPEC)設立者の一人、ホアン・パブロ・ベレス・アルフォンソが1970年代に語ったものだ。まさに的確な予想であり、この予想通り、OPEC加盟国はほぼすべて、原油で得た富を使って石油と関連製品以外の分野に経済を大幅に多角化することに失敗している。天然資源で得た富は、通貨の価値をゆがめるだけでなく、社会にも悪影響を与える。苦労なく簡単に富が得られると、生産性が伸びにくくなるのだ。

何度も繰り返してきたけど、国民の生産性が伸びれば伸びるほど、その国は豊かになれる。つまり、生産性を高めることは、その国、国家、他の人々への最大の貢献なんである。逆に、生産性が低ければ、その国は貧しく、低い生活水準を享受せざるを得ない。

ま、ネオリベの神の自己正当化の文を持ってくるのもどうかと思うけど、天然資源が豊富な国の経済が低迷するのは、“自然現象”のような「オランダ病」が原因じゃない。リベリアのダイヤモンドやイラクの石油、南アフリカレアメタルを考えれば判るが、単純に資源国にイニシアチブを握りたい側が積極的に介入するからだ。紛争、利権、汚職、もろもろを考えれば明らかだ。天然資源をガッチリ握りたい“資本主義の走狗”は、当事国の政権、支配層を懐柔する。ここはまさに“自然現象”。水は低きに流れる。国民の大半を貧困に放置しても、産業振興に見せ掛けて借金を抱え込まされても、自分たちの最大の利益を確保する事を支配層は選択する。資本主義的には理にかなっている。
オーストラリアやカナダは天然資源が豊富で、資源輸出も好調。通貨も高い価値を持つ。それでも「オランダ病」にはなっていない。介入の図りようが無いからだ。
逆に、「オランダ病」とされる国は、政権自体に問題がある。資本主義うんぬんの話じゃないのだ。

グリーンスパンは、これを著書で非常に簡潔な言葉を使って説明している。そして、実際に、それを歴史が裏付けている。世界の富は、ここ100年で増大した。主に資本主義の国々で。そして、乳幼児死亡率は下がり、貧困は減り(必ず敗者を生み出す資本主義なのに)、平均寿命は延び続けて2倍になった(競争が絶え間なく続くのに)。このあたり、詳しく知りたい人は、グリーンスパンの著書を読んでみてくださいな。

世界の寿命を延ばし続けているのは何だ?答えは資本主義。

世界から貧困を少なくしているのは何だ?答えは資本主義。

世界の生活水準をあげているのは何だ?答えは資本主義。

過去、どんな宗教、思想、哲学、そして体制も成し遂げれなかったことを、資本主義は成し遂げたの。資本主義の300年にわたる歴史で、人類は飛躍的に進歩した。進んだ資本主義国では子供たちは飢えと貧困と過酷な労働から解き放たれた。女性は、信じられないほど地位が上がった。妊娠を自分でコントロールする権利を得て、沢山の財産をつくることも出来るようになった。男性に頼ることなく。

ぶはははは!少しは歴史を勉強しろよ。資本主義が本格的に登場した18世紀半ば*1から、労働環境はそれ以前より悪化している。19世紀のイギリスでは10数時間を超える労働時間や、児童の労働も珍しくはない。貧困層は現在でも同じだが、子だくさんで乳幼児はバタバタ死ぬ。資本主義が現在より徹底していた19世紀のロンドンは天国じゃないぜ。


寿命を延ばし、貧困を減らし、生活水準を上げたのは、資本主義によるものじゃない。認めたくは無いだろうが、「共産主義社会主義」「労働組合」の存在だ。貧困層の不満を集約するように労働組合共産党の活動は活発になってきた。それ以前の“施し”とは別次元で貧困対策が図られるようになったのも、その頃からだ。
20世紀に入ると資本主義の天下であったアメリカでも様子が変わってくる。シンクレアの告発や反トラスト法の制定、社会福祉制度の導入。共産主義社会主義を敵視、弾圧する一方で、対抗の意味もあって貧困対策はそれなりに導入されてきたのだ。
社会主義国家群が崩壊した20世紀末よりこのかた、皮肉な事にアメリカの貧困層は増大し、乳幼児死亡率は社会主義国キューバに劣る。資本主義が勝利を高らかに宣言し、臆面もない進撃を開始したツケがそれだ。


ついでにいえば、早くから女性の権利拡大に努めたのは資本主義国家ではなく、社会主義国ソビエトだった。本当に皮肉な話だ。民主的な選挙など行われない国だったのに。対抗する形で資本主義陣営でも女性権利が拡大してきたのだ。


で、生活水準の事だが、たとえ崩壊状況だったソ連でもキューバでも、19世紀末のイギリスやアメリカよりは生活水準は上だ。だから、資本主義が生活水準を上げる訳じゃない。経済システムとして資本主義を用いる事と別に、社会維持のためのシステムは必要なのだ。でなければそもそも、資本主義、とやらも存続できないのだから。


それにしても、

なぜ、物質的豊かさがあがっても、日本人は、それと同じペースで幸福になれないんだろう?なぜ、日本人は、世界でもっとも豊かな人々の範疇に入るのに、こんなにも不幸だ不幸だと騒ぐ人が多いんだろう?

その物質的豊かさが何で担保されているか、それが豊かさを示す指標となりうるか、について浅い。だいたい、購買力なんて絶対値で評価したってしょうがないって。

現在の先進国の若者にとって、将来の経済的安定性というのは、どうやら、過去の存在となっており、暗黙の必要条件は、世間の注目をひくことによって得られる「自己満足の追求」になっている、という指摘をどこかの本で読んだ。

低収入の人でも現在の労働環境は過酷だ。その過酷な中を生きる以外に選択肢が無い。その選択の中であれば、低いがしかし途上国よりは高額な、収入を得ることが出来る。だが、その選択を降りてしまえば、“いっさい収入は無くなる”。その事が問題なのだが。


資本主義下の競争をやりたければやればいい。だが、競争であれば競争のルールを決めておく事は無意味じゃない。再分配のためのルール、労働条件のルール、例えば正規採用以外は認めない、とかね。それでは企業が維持できない?そんな企業が淘汰されるのだって競争の一つだろ?
現在問題なのは、どこの国もルール、つまり条件の引き下げに走っている事だ。発想を変えて、全面的に再分配と労働条件のルールを世界的に徹底させる。その方が効果的だ。
富が分配されると、競争意欲が下がる?そんな事は無いだろ。
競争の原動力が「自己満足の追求」であり、絶対的価値より相対的価値が重要、というならね。


それにしても、確信犯のグリーンスパンは醜悪だが、こいつは単に間抜けなだけだな。

【追記】
たまたま、紙屋研究所の書評を見たら、ネオリベ話が出ていた。このところの話にピッタリの書評だと思うので紹介。紹介されている本だけじゃなく、管理人の分析が相変わらず素晴らしいので、参考になると思います。

・友寄英隆『「新自由主義」とは何か』
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/neolibe.html

タイム・マシン (創元SF文庫―ウェルズSF傑作集)

タイム・マシン (創元SF文庫―ウェルズSF傑作集)

「新自由主義」とは何か

「新自由主義」とは何か

*1:産業革命以後を指す。それ以前の資本主義は言葉としてはあっても、実態を伴っていない