シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

脱原子力はチャンスだよ その1(1/5)

ども。涼しく過ごすコツは、首筋、脇、鼠蹊部を冷やすこと。豆知識大好き、シートンです。


さて、今年の夏もどうやら山場は越したようです。自分の住む地域では、昨年よりはキツくなかったのですが、皆様はいかがお過ごしでしょう?


相変わらず、自称現実主義者、が「原発が止まると電気が足りない!」「企業が出ていく!」と騒いでいますね。新首相も、脱原子力を明言しないし、困ったモンです。


だいたい、今年の夏の節電騒ぎは、「脱原子力」とは関係がありません。もともと、震災で止まった原子炉(これは、事故機は論外、そうでないものも点検無しには使えない)と、安全審査の想定不足によって再稼働出来ない原子炉、が問題なのですから、「脱原子力」を進めるか否かに関係無く動かすことには問題があるのです。今後、停止中の原子炉を再稼働させるかどうか、では、従来「想定外」で済ませてきた事を「安全審査」でキチンと盛り込めるかどうか、が問われるわけで、その延長に、再稼働するか、廃炉にするか、の選択があります。いい加減、今年の夏の電力供給がせっぱ詰まっていたことを「脱原子力」に繋げるのは見苦しい行為です。


もし、このへんの、従来見逃してきた問題点をキチンと俎上に載せて審査するのではなく、お手盛り的に「電力が足りないと経済にダメージ」だとか、「企業が海外に逃げる」などというヨタ話で再稼働を正当化しようというのなら、原発周辺地域住民の安全と自分達の安寧のバーターであることに自覚的であるべきです。危険性を承知で再稼働に踏み切るわけですから。この危険性は確率論的な話ではありません。従来、無視してきた事が顕在化した状況での不作為は厳しく責任を問われる事になります。その覚悟はあるのか?ということです。


ですから、一番どうしようもないのが、消極的原発賛成派、という連中ですね。未だに、「代替案は?」で判断を済ませられると考える根性がイヤらしい。
原発は危険だが、安定的な代替電源が無い状況では、原発はやむをえない」
危険性がある、と認識しているのなら、それを知りつつズルズル続ける事の責任を負う覚悟はあるのですか?「即時脱原発派」は“原発が無くてもなんとかなる”、と主張してますし、「漸次脱原発派」は“適切な過渡期を設ければ、代替手段に変えていける”と述べています。どちらも、論理の整合は取れているのです。むしろ、消極的原発賛成派こそが、真剣に「代替案」を考えなくてはいけない。
消極的原発賛成派はそれをアウトソーシングし、思考停止し、他人の危険を見て見ぬふりをする。
そんな態度をとるくらいなら、積極的原発賛成派の方がマシなくらいです。彼らはそもそもこの期に及んでも原子力が危険だと認めようとしない。倫理面では問題はありますが、彼らの主張が首尾一貫しているのは確かです。
いい加減、日和った態度を取って、どちらからも距離を置いていれば冷静で合理的な自分を演出できる、なんてくだらない事は止めるように。


さて、今回の原発事故で示された問題点は、すでに宇沢弘文先生が提示しています。原子力運用に伴う危険性(リスク)と利益(ベネフィット)を比較して、後者が上回れば、原子力運用は正当化出来る、こういう意見はよく見掛けます。これは、自動車に関しても同様の主張が為されてきました。しかし、宇沢先生は、リスクを負うものと利益を享受するもの、そしてその中身に著しい非対称性がある、と喝破します。さらに、公害問題*1にも同様の構造があると。


原発事故と水俣病(と他の公害問題)には著しい共通点があることは、今までも多くの人たちが指摘してきました。

水俣の漁村の人々に降り掛かった健康被害を、行政も産業界も極力過小評価しようとしたこと
少数の良心的な人々を除いて、学会もそれに荷担したこと
地域住民の間で分断が起き、「風評被害」と差別に苦しんだこと
今なお、問題を直視せず、被害者を厄介者扱いすること


水俣チッソは日本の化学工業の大生産工場でした。ですから、行政も産業界も「止める」判断など絶対に下しませんでした。彼らの努力はひたすら隠蔽に向けられていました。危険性を早くから知りつつ、操業を続けたのです。その結果、多くの人が今なお苦しんでいる。
どうです?今、原発を動かす、という事は、水俣アルデヒド生産プラントを知らぬふりをしつつ動かす以上の問題を抱えているのですよ。
水俣工場を止めたら、経済が落ち込む」と主張する輩がいたら というか実際居たが その人物をどう見なします?
水俣病は終わっていない。教科書に載った「過去の話」などでは無いのです。今、我々の前に突き付けられた問題そのものなのです。


こうした、問題を指摘すると、今度は「社会的弱者」に転嫁する人々がいますね。「原発が止まるとオレ達はいいけど、社会的弱者が苦しむ(死ぬ)」と。
これはもうメチャクチャですね。まず、常に社会的弱者にツケ廻しするのが当然、と考えている(それも無自覚に)のがイヤらしい。そして、ここには主語が無い。社会的弱者は“苦しみを放置される”(見殺しにされる)のであって、勝手に苦しむ(死ぬ)わけではありません。


原発が止まって)経済が落ち込めば、(自然に)社会的弱者は苦境に立つ。これは、「トリクルダウン(おこぼれ)理論」を当然視し、その延長に福祉を考えている態度に過ぎない。経済低下と死亡数の相関は自然現象ではありません。政策不在による結果です。それを当然起こりうる事、と捉えるのは、現在の社会のあり方を「事実」から「真理」へ昇格させてしまった事による錯覚です。本来は社会的対応によって緩和できる話です。
電力が安定な例年も熱中症死はあったし、ワーキングプアは厳しい状態にありました。本当に社会的弱者が心配なら、「原発」の再稼働ではなく、社会的対応を求めるのが筋というものでしょう。


もう一つ、ここには大きな問題があることも無視されています。つまり、原子力関連施設で実際に働く人々、の事です。末端レベルでの作業労働において人権無視状態にあったことが明らかになってきています。というか、実際にはその告発を皆が無視してきただけなのですが*2、少なくとも多くの人の意識において顕在化する程度には知られるようになったようです。
こうした劣悪な労働状態を見て見ぬふりをするつもりなのでしょうかね?消極的原発賛成派の方々は。原子力は、地域問題といい、労働問題といい、民主主義国家で維持出来るようなものではない、と私は考えます。それとも、こうした問題もアウトソーシング 文字通り にすればいい、と考えますか?


原子力というのは、我々が民主主義国家においての生活の営みにおいて、差別を当然視/不可視化しないためのものなのです。単純にエネルギーの問題ではない。
もし、こういった指摘を無視し、“(自称)現実的”な手段とやらを看過するつもりなら、労働強化でも、リストラでも、ワーキングプア化でも、ブラック企業でも、同じ論理で正当化されてしまうことは免れないはずです。
続きます。

原発労働記 (講談社文庫)

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これが原発だ―カメラがとらえた被曝者 (岩波ジュニア新書)

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原発崩壊

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闇に消される原発被曝者

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「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

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*1:この本が書かれた頃は、公害問題が盛んであった

*2:平井憲夫氏の「原発がどういうものか知ってほしい」の指摘する構造的問題を、些細な瑕疵をあげつらって矮小化する連中は、震災直後にも見受けられた