シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

軍は守ってくれない

ご無沙汰しております。公私ともに色々とございまして、なかなかに更新もままならない状況にあります。
さて、この間、近所を歩いていた時の事でございますが、「売り家」と書かれた看板のある空家*1の塀に、そっぽを向いた男の横顔の下に「まっすぐ景気回復」と書いた色褪せたポスターが貼られておりました。そうです。景気回復どころか「まっすぐ安保改正」の宰相Aのポスターだったりします。家を売りに出した人々がこのポスターをどんな気持ちで見ていたのか気になるところではありますが、選挙公約など気にも掛けない人物であることは判っていたはずなのになぁ、と思います。

それにしても、異様なまでに安全保障関連法案改正に力を入れる、宰相Aでございますが、さすがにどこを見渡しても法案に賛成、という御仁に会った事はありません。日々のニュースから窺える宰相Aら閣僚の様子も支離滅裂なものになってきております。
さて、この連中がしきりに口にするのが、「情勢が急速に変化しており、従来の安全保障体制では国を守れない」であったりするわけですが、憲法解釈というものは、情勢によって変えるようなものではないですし、そもそも情勢悪化の主原因はお前らじゃないか、という話でもあります。

ただ、ここでするのは、そういう話ではありません。より根本的な前提に関わることであります。
すなわち、「国を守るために軍(事力)が必要」
いわゆる“サヨク”以外は、この前提は当然のものとして捉えていることでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか?そもそも、この国において、軍が「国を守った」ことなどあったのか。そのへんを見る事にいたしましょう。

昨今、米軍基地の押しつけに反発を強める沖縄ですが、第二次世界大戦中に日本において地上戦を経験した土地でもあります。大戦末期に沖縄に上陸した圧倒的な米軍に対して日本軍は徹底的した持久戦に持ち込みます。そして、転戦を繰り返し沖縄南部へと米軍を“引き込む”日本軍は沖縄島民を伴いました。それは、沖縄島民が米軍攻撃に晒されるという事態だけでなく、より悲惨な状況へ追い込みました。沖縄南部各所には日本軍が米軍からの猛攻を避けるための待避壕*2が残されていますが、そこで逼塞を余儀なくされ、米軍の攻撃の他、飢餓や傷病に苦しめられます。さらに悲惨であったのは、退避を強要した日本軍兵士による理不尽な扱いでした。乳児が泣くのを「うるさい(米軍に発見される)」からと、自らの手で殺す羽目になった母親達が数多くいます。さらには、スパイの扱いを受けて自軍兵士によって殺される住民。米軍に投降しようとして、自軍兵士によって背後から射殺されたもの。戦闘終盤になると、自決の強要も行なわれました。自らの意思で“自決”したものも数多くいましたが、「米軍に捕まると酷い目に遭わされる」という言葉が刷り込まれていた影響が大きいと思われます。ちなみに、この「米軍に捕まると酷い目に遭わされる」の中身は、日本軍がアジア各地で行なってきたことであり、日本軍兵士は相手に自らの姿を投影していたのでした。
運良く生き延びて米軍の収容施設に入った住民も安心は出来ませんでした。なぜなら、日本軍兵士が収容所の住民を殺しにきたからです。
沖縄戦において日本軍将兵の大半が戦没しましたが、住民被害はさらに多く94,000人以上が亡くなりました。その全貌は未だに判っていません。沖縄本島南部のガマには未だに住民達の遺骨が残されています。
さて、このような悲惨な犠牲を払った沖縄でしたが、当の日本軍中枢は沖縄(と住民)をどう見ていたのでしょうか? 各種文献には、軍中央部の言葉として「本土上陸の時間稼ぎ」とあります。硫黄島で行なわれたのと同じ、島内に引き込み持久戦を取ることで、ひたすら時間稼ぎをする。硫黄島でも住民や軍属に犠牲が出ましたが、沖縄では規模の違う犠牲が出る事は必至であり、それは容易に予測できました。しかし、日本軍中枢は沖縄住民の犠牲を考慮だにしなかったのです。

私はこう考えます。
「沖縄の人々は、守るべき『日本』に含まれなかったのだろうか」
「もし、含まれないのであれば、一体、誰が守られるべき対象になるのだろうか」

沖縄の人々に悲惨な事態をもたらした直接の当事者は日本軍兵士たちですが、彼らとて悲惨な状況に追い込まれた人々でした。彼らも、守るべき「日本」には含まれないのでしょうか?

沖縄の人々だけではありません。
満州地域に移民として渡った人々も同じです。ソ連満州に侵攻してきた際に関東軍主力は住民を守ることはありませんでした。彼らは侵攻が避けられないと知ると、広範囲の地域からあらかじめ撤退します。その情報は住民には伝えられませんでした。このため、ソ連軍が侵攻してきた際に夥しい人々が危機に晒され、彼らは軍の保護無く逃避行を余儀なくされます。途中、はぐれたり置いていかれたり*3した人々が、後年に「中国残留孤児」と呼ばれます*4

日本本土も決戦の場と化そうとしていました。九州南部には戦争末期に造られた壕が数多く残っています。脆いシラス層に造られたため、崩壊したものも多く、現在見られるものは多くはありません。ここでも、日本軍の発想は同じでした。「引き込んで持久戦に持ち込む」実際に本土決戦が行なわれていたら、どれほど悲惨な状況になったでしょうか。
さらには、原爆二発落とされても徹底抗戦を叫ぶ上層部は多くいました。
本当に、軍は何を守ろうとしていたのでしょうか?日本国民が守るべき存在で無かったのは確かです。財産も金品も供出させ、子ども達を動員し、爆撃に晒されても守ろうとも退避させようともしない。日本軍にとって日本国民は戦争に利用すべきリソースとしか映っていません。
では、何を守ろうとしたのか?天皇?これも違います。軍の中には、厭戦気分が強くなり、軍に対する批判の気持ちを隠そうともしなくなった昭和天皇を退位させ、自分たちに都合のいい天皇を奉り上げようという意見さえありました。天皇を中心とした体制維持、は彼らにとって譲れない部分ではありましたが、それは、昭和天皇個人に対してではない。
つまり、日本軍が守ろうとしたもの、それは日本軍自体とそれを支える体制、だったのです。彼らにとって、それ以外の国民の命や財産、そうしたものはどうでもよいものだったのです。

もともと、大戦の始まりは、盧溝橋事件だったり、上海租界の邦人保護、だったりします。
その両方で軍は平和を守るどころか、戦争拡大に奔走します。厭戦気分が高まらないように報道統制を敷きながら。戦争の最初から最後まで軍は人々を踏みつけにし続けます。その事を省みもせずに続けた結果、アジア各地や自国に夥しい被害をもたらしたのです。

大戦後に制定された憲法において、戦力不保持と非戦主義が支持されたのは当然のことでした。
「軍は守ってくれない。むしろ、戦いを自ら生み出して、それに巻き込む」
それは、当時戦争を体験してきた人々のリアルな考えだったのです。
私の親世代は軍というものに対してあらかじめ警戒心があります。私は戦後生まれですが、歴史を学ぶ事を通じて、軍が住民を守らないものだった、という事実に向き合うことになりました。
歴史修正主義者が、教科書や各地の歴史的展示を改竄しようというのも納得ですね。事実に直面すれば、「軍事力によって平和を守る」などというのは、お伽噺もいいところ、という事がバレてしまいますから。

立ち返って、現在の状況を見てみましょう。現在の自衛隊は旧軍と一線を画す存在であることを示そうとしています。しかし、OBの発言であるとか、内部のいじめの問題などが旧軍の体質を色濃く引き摺った存在であることを覗かせています。専守防衛に努めること、を自らの存在価値としてきた自衛隊は災害救助活動などを通じて信頼を寄せる国民を増やしていますが*5、先制攻撃さえありうる集団的自衛権を認めることは、旧軍と変わらない存在へ変貌させる事になるでしょう。
もちろん、宰相Aはそれこそを望んでいるのですから当然ですが。彼は人々を踏みつけにする側の人間です。あなたがその側に擦り寄っても、彼の眼には踏みつけにする存在としか映っていません。そもそも意識さえしているか疑わしい。そんな人に媚びても仕方がないでしょう。

あなたが本当に守って欲しいものは何ですか?“わが軍”は、本当にそれを守ってくれますか?「平和を守るには軍事力が必要」という人は、まず、その前提を疑ってみた方がいいでしょう。
では。

*1:当方のところも空き家が増加しています。「自滅する地方」シリーズで警告していた事態が現実のものとなってきましたね

*2:沖縄でガマと呼ばれる天然洞窟を利用したケースが多かった

*3:親兄弟を一つ弁護するなら、自身も逃げ延びられるか判らない状況だったため、中国人家庭に預ける方が生き残れる可能性が高い、と判断することは多かっただろうと思われます

*4:残留というと自身らの意思によるようだが、実際には棄民です

*5:私は自衛隊の活動には敬意を払う一方、災害救助活動専従の組織であるべき、と考えます