シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

切り裂きジャックによろしく

1888年、8月31日。秋のロンドン、貧民街となっていたホワイトチャペルという地区での事です。当時、ロンドンは世界最大の都市であり、そして同時に世界最悪の大気汚染に覆われた街でした。産業革命後、ロンドンは産業都市としても発展し、交通も発達しました。そのどちらも石炭が用いられたため、大量の煤塵が市内外を覆い、スモッグという言葉も生まれたのです。秋のロンドンは湿度が高めで気温が低く高緯度ゆえに日暮れが早い。夕刻には僅かなガス灯がスモッグによってぼんやりと浮かび上がる暗い街でした。
当然、出歩く人々も多くは無かったのですが、彼女、はホワイトチャペルの街頭で最下級の「娼婦」として客引きをしていました。若くもなく美しくもなかった彼女に客はなかなか付きません。普段から深夜まで客引きを続け、客が見つからなければ救護院へ行き、運よく客が見つかれば安宿へしけこむ。僅かな代価はアルコールへと姿を変えました。彼女からは常にジンの匂いがしたそうです。その晩も彼女は街角に立ち、客を引いていました。しかし、彼女が運よく客を見つける事が出来たのかどうかはわかりません。なぜなら、翌日、無残な死体となって見つかったからです。
彼女の名はメアリー・アン・ニコルズ、通称ポリー。現在、公式に認められる最初のヤツの犠牲者とされています。
ヤツ、すなわち“切り裂きジャック”の登場でした。


現在、ジャックの犠牲者として5人の女性が挙げられます。順にメアリー・アン・ニコルズ、アニー・チャップマン、エリザベス・ストライド、キャサリンエドウズ、メアリー・ジェーン・ケリーです。最後のメアリーだけが比較的若く、そして殺された現場は居室でした。


切り裂きジャックの被害者だった女性たちはどのような人々だったのか。イメージとして、こんな被害者像があります。


ジョジョの奇妙な冒険 3巻 より引用 )*1

しかし、実際の被害者像は名前でググるとわかります。確かに生前と検死写真では与える印象は違うでしょうが、それにしても老けていると思いませんか?どう見ても老女としか見えませんが、一番高齢のアニー・チャップマンでも40代です。彼女たちの過酷な貧困生活が老けこませたのです。


被害者たちの共通点は、娼婦である、という特徴の奥にありました。皆、離婚・死別した女性だったのです。それぞれに理由はあるにせよ、ヴィクトリア朝時代の当時、家庭から出た女性は“ふしだらな女”として蔑まれました。離別した女性は実家にも戻れないか、戻りにくく、生活の術と場所を求めて世界最大の都市ロンドンへ流れ込んできたのです。当然、職に恵まれるわけでも無い貧困街で生活が荒むようになると、お決まりなのが街角に立つことです。被害者たちは格差の激しいロンドンで頼るものもなくその日暮らしを余儀なくされ、そして命を落としたのでした。


生前は社会から無視されていた彼女たちですが、猟奇殺人事件の被害者となると、一転、新聞 当時ほぼ唯一のメディア にセンセーショナルに扱われるようになります。
凄惨な殺人現場の描写から、被害者像まで多くの新聞がスクープとして記事を載せ続けます。もちろん、一番読者の興味を引いたのは、“フーダニット”、犯人は誰か、でした。
そして、新聞や世間は勝手な犯人探しを始めます。犯人の姿を見た、こんな証拠が残っている、あいつが怪しい、etc。
さらにその犯人探しに拍車を掛ける出来事が起こりました。
「犯人」が新聞社に声明を送ってきたのです。現在に残る犯人の通称“切り裂きジャック(Jack the ripper)”はその声明の中にあった署名にちなむものなのです。
現在では、ジャックの声明には犯人しか知りえない事実は無く、送りつけられた被害者の内臓の一部とされているものも被害者のものではないことから、別人によるもの、と考えられています。
(偽の)犯行声明まで出る状況に警察の捜査は難航し、ジャックがプッツリと殺人を止めると迷宮入りとなりました。数多くの容疑者が捜査線上に浮上し、消えました。しかし、それ以上に人々の話題になるジャックがいたのです。ジャックに関する多々の憶測には特徴がありました。犯人とされる多くが、ユダヤ人やロシア人、ポーランド人、当時、ロンドンにおいて差別されていた“外国人”だったのです。実際にユダヤ人を犯人と仄めかす落書きが現場付近にあったのですが、当時の警視総監チャールズ・ウォーレンはそれが群衆の目に触れれば、ユダヤ人に対するリンチが起こりかねない、と消させています。
何かあれば、それは“「外国人」の犯罪だ”、彼らは格好のスケープゴートでした。


さて、こうした「外国人」に対する差別によって、容疑者が多すぎる事が捜査を難航させたわけですが、同時に「被害者」が“多い”事も捜査の支障となりました。当時、犯罪多発地帯だったホワイトチャペルでは、誰がジャックの被害者なのか、さえ絞り込めない状況にありました。現在では被害者は5人と考えられていますが、当時は前後に殺害された女性たちもジャックの被害者か否かで捜査を混乱させたのです。そもそも連続殺人なのかどうかだって判りません。コピーキャット模倣犯)による事件の可能性もあります。


ただ、明らかなことは、被害者たちは当時の社会の貧困層に属していた事、そして彼女たちに対する残忍な犯行であったこと。つまり、ロンドンにおけるヘイトクライムの一種だった、ということです。


当時イギリスは古典的自由資本主義の時代でした。大英帝国は「日の沈まぬ帝国」として世界の富を一身に集める存在ではありましたが、そのお膝元はすでに述べてきたようなものです。地方は疲弊し、都市に人々が流れ込みました。そうした地域は貧困層を嫌って住民が流出し、スラム化します。社会福祉制度は存在せず、ただ施しの救貧院があるだけ。特に離婚した女性に対する蔑みが、彼女たちをたちどころに貧困レベルに追いやります。


どこかで聞いたような状況だとは思いませんか?新自由主義的、貧困者に冷淡な政策を続ければ、そして「外国人差別」を放置するならば、間違いなく19世紀末のロンドンのような状況が繰り返されるでしょう。それを是とするも否とするもあなたの選択次第です。もし、こうした状況を是とするならば、私から云えるのは次の言葉です。


切り裂きジャックによろしく」


参考: 時代の正体〈519〉いまこそ加害に向き合う 朝鮮人追悼文取りやめ問題
http://www.kanaloco.jp/article/277292

生活保護受給者に顔写真カード、大阪市長が拡大を検討
http://www.asahi.com/articles/ASK805G14K80PTIL00X.html


では。

切り裂きジャック―闇に消えた殺人鬼の新事実 (講談社文庫)

切り裂きジャック―闇に消えた殺人鬼の新事実 (講談社文庫)

*1:この後のDIOのジャックに対するセリフで、「幸せそうにしている 楽しそうにしている女に怒りを感じるんだろう?(略)」というのがありますが、実際には違うわけです。