シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

オレンジレンジ追記とオシム代表監督について

W杯が終わって、あのオレンジレンジの曲を耳にすることもなくなった。
で、自分と同じ感想を持っていた人がいたんだな、と言う話。
  朝日新聞 7/21 夕刊時評圏外 窪田晴男 

一応、全文引用する。

W杯の期間中ずっと気になってたことがある。
それはNHKでテーマ曲として使われたオレンジレンジの曲のエンディングの”ウォーウウォッオッォー”の部分の音程なのであるが、何度も聞かされているうちに、もっと気になることに思い至った。
実際あの曲は我が酒場仲間にも評判が悪い。”なんかイヤ”だの”サッカー文化への冒涜”だの”あの曲のせいで負けた”だの・・・・。そこまで言われると酒場の戯れ言とはいえ、同じ音楽でメシ食う者の先輩として非常に切ない。
無論、彼らはプロなのだから受けねばならない批判は受けねばならないだろうが、僕は彼らの不明より、むしろそれをスルーしてしまった大人やプロの”まあいいか”の連鎖に強い憤りを覚える。
スポーツと流行歌という珍妙な取り合わせが定番となりつつある(もちろん人気復活には手段としてアリだが)テーマ曲の昨今であるが、その競技への理解や大会の歴史に対する尊敬がないアイデア(アイドルロックバンドで元気な曲)を、ズバリ幼稚な仕事と再考を促す上司はいなかったのだろうか。また製作の方にも、僕の気になる合唱部分の音程を直そうと、もしサポーターの歌のように聞かせたいからこのままにしたいと言うならベースをぬいてこの部分は前奏にしてサビを新しく作ろうと、もっと言えば、サポーターの歌なら本物をサンプリングしてそれを下に曲を作り直そうと、創造的な助言をする大人は、彼らの側にいなかったのだろうか。
大人の仕事は、若者を励まして見守ることだと思う。そしてダメなものとわからないものの差がわかるための修練と勉強を、そしてそれを正せる勇気と愛情を持って初めて大人にしかできない仕事(長とかプロデューサー)をする資格が持てるのではないのか。
サッカーはその国の国民性を表すというが、ジーコは体格と体力が足りないと言った。僕はそれより責任感と愛情が足りないのではないかと思っている。中田の抜けた穴より大きな穴が、この国にはあいている。


自分が書いた曲評は以下。

オレンジレンジチャンピオーネってガキっぽ過ぎる。ショボいぜ。あんな曲掛けてんじゃねえよ。NHK。”

サッカーというのは、人間にとって最もプリミティブなスポーツの一つだ。多分、これよりプリミティブなスポーツは(現在では)ボクシングだけだろう。
人間が人間たる根本である手を故意に使わず、ボールを相手ゴールへ押し込む回数が多い方が勝ち、という単純極まりないルール。人間と言うより動物としての根源に訴えかける闘争心を剥きだしにして戦うのだ。観客もこの闘争心に共鳴する。観客同士が殴り合ったり火をつけたりハダカで走り回ったり、戦争まで起きてしまうスポーツが他にあるか?

心を奮え立たせ、魂を燃え上がらせる。サッカーの、それも人類最大のスポーツイベントの大舞台で掛ける曲なら最低限それくらい出来ないとダメだ。チャンピオーネにそれがあるか?冗談じゃない。もっとファンキーでロックな曲でないと。オレンジレンジが悪いとは思わない。ただガキすぎたのだ。今人気って事で選ばれたんだろうが、選ぶヤツのセンスが無い、というかサッカーなどどうでもいいヤツなんだろう。もっとサッカーの事が分かるヤツを使えよ。本当に頼むよ。


ほぼ同じ内容ながら(こちらはサッカー寄り、あちらは音楽寄りだが)、丁寧な文だと与える印象はだいぶ違う。これが”プロの仕事”って事ですね。


で、さらにサッカーの話題だが、川淵氏の(故意の?)失言以来、オシム人気上がりっぱなし。ジーコへの期待の裏返しとも云えるんだろうが、「オシム語録」も売れているそうだし、オシム氏への期待はふくらむ一方である。
だが、サッカーをやるものとしては、オシム氏の指導に対しては若干の疑問がある。
あちこちで取り上げられているが、
”ライオンに追われたウサギが逃げ出すときに、肉離れをしますか? 準備が足らないのです”だとか”走りすぎで死ぬことはない。”なんて言葉までメディアで手放しで賞賛しているのを見ると、懸念は増すばかり。


(野生のウサギで足が攣ったヤツは食われてしまうだけだし、夏場に市民マラソン等で亡くなる人はどうなる?)なんて突っ込みではない。


自分がサッカーをやって気づいた事だが、巧いヤツほど走らないのである。
相手をピッタリとマークしていても、相手はノンビリ歩いているだけ、かなり局面が近くになっても揺さぶってみたり、ボールに向かってたりしない。ところが、一瞬にしてマークを振り切られて僅かなタッチでチャンスに絡む。こちらは振り回されっぱなしだ。慌てて相手に付き直そうとしても遅い。相手は、また悠然と歩き出している。


ハイレベルな試合を見ている時、ボールを持っていない選手の動きに注意すると良い。決して走り続けているわけではないことが判るから。


自分は大して巧くないから、チャンスをモノにしようとしたら積極的に仕掛け、前線に駆け上がり、最終線まで戻る。相手のパスミスを誘うためにアタックを繰り返し、ボールが溢れたら奪い取る。のべつ動きまくるから、スタミナ切れしないようにトレーニングは欠かさない。それでも夏場は足が攣ったりする。


そう、実は日本のサッカースタイルは巧くないチームの戦術なのだ。


巧いプレイヤーは局面を読む感覚に優れているから、歩きながら最適なポジションを取る。で、チャンスには全力。その緩急差が相手を惑わす。パスも今は動いていない味方の、全力で動くとここにいるという場所へ出す。スタミナも切れにくい。


つまり、オシム監督の走って走りまくれ、てのは、日本サッカーは下手だから、足でナンボの世界だ。と言うことを示す。この考えは就任時の言葉からも伺える訳だが、技術面を向上させよう、局面を読む力を育てよう、状況に応じてプレイスタイルを変える柔軟性を持とう、と言うような「高度なスタイルを身につける」事は考えていないのだろうか。


オフトは基本スタイルを徹底する事を要求した。これはオシムに通じる考えだ。トルシエも基本スタイルを貫き通す事に執着した。どちらも初級レベルには有効な考えだ。ジーコは「基本が出来ている」事を前提に「高度なレベルを学ぶ」事を期待した。それが期待したレベルに達していなかった、と感じただけで、また初級レベルのスタイルに戻る気だろうか。どの国も同じである。一回や二回で一足飛びにレベルが変わるはずもない。
サッカーに限らないのだが、拙速で裏付けや覚悟のない楽観に振り回され、その楽観が裏切られると長期的な覚悟のない短絡的な結論を出す。
「日本人はサッカーに向いてないんですよ。」なんて言葉もあちこちで聞いた。
なんで本戦で勝てない程度でそんなこと言わなきゃならない?
ライバル韓国が初勝利を挙げたのは自国開催になってのこと。それまでに何回出場していると思ってる?あの、アルゼンチンが優勝したのは78年の自国開催の大会だ。それまでに100年近い歴史がある(アルゼンチンにサッカーを伝えたのはイタリア移民だという)アルゼンチンでさえ簡単に乗り越えられる壁じゃない。
短絡的な結論とオシム賞賛がくっついているなら、あまり良い事じゃない気がする。


まさに、”プロ(大人)の仕事”になっていないのだ。協会もサポーターも。
と、むりやり引用に結びつけておしまい。