シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

自滅する地方 〜エウルの夢、幻のゲルマニア〜

先日、用があって首都圏へ行ってきた。だいたい、どこへ行っても周囲を歩かずには済まないのだが、今回も暇を見ては、新宿−渋谷間を歩き倒したりしていた。チャレンジしようとしていた「山手線一周歩き倒し」は時間が無くて取りやめたが。


で、東京は意外に狭いモンだな、というのが実感。今までも東京−新宿とか、東京ビッグサイト−田町とか、近い所だと秋葉原−東京とか歩いてみたりしたのだが、東京は全般にコンパクトに出来上がっている街なのだ。


新宿を歩き始めて20分も立たないうちに代々木に辿り着く。代々木から原宿は多少歩くが、それでも街の景色の移り変わりは飽きさせる事がない。原宿から渋谷までは明治神宮からの坂を下ればすぐだ。1時間もしないうちに辿り着いた。面白いのは、各駅周辺に街が纏まっており、構造的に歩きやすく出来ている事。


これが、“地方都市”であれば、駅周辺は“区画再開発”で出来た人気のない大通りをポツネンと歩き続けるか、ショッピングセンターやロードショップ、フランチャイズの店が建ち並ぶ幹線道路の広いだけが取り柄の歩道を排気ガスと騒音を浴びながら歩くか、のどちらかになる。歩いても景色の変わり映えしないような“地方都市”のそんな外れには、なんのつもりか「旧東海道」なんて木に似せて作った標識があったりする。旧東海道の面影なんぞどこにも無い。
地方は歩いて楽しい町なぞ考慮だにしていない。イナカものは歩かないのだ。


そこ行くと、東京の街は“Walkable(歩くことが可能な)”街であったのだ。あったのだ、としたのは、東京でも再開発で出来た区画は、歩く楽しさを奪う構造のものが多いからだ。
埋め立て地に造られた東京ビッグサイトから歩いてレインボーブリッジを越えようとした時も地方の幹線道路を歩くような気分がした。景色は歩いても歩いても変わらず、変化に乏しい。建物も道路も広く、歩くにはつらすぎる。ところが、橋を越えて田町周辺まで来ると、街は“等身大”に様変わりする。運河と運河に面して立てられた建物。狭い街路を行き交う人々、それをすり抜けるような車や自転車。何もかもが、とりわけ殺風景な埋め立て地を歩いたせいか、愛おしかった。
人々の人気がお台場周辺に限られるのも判る気がする。お台場周辺だけは、ごちゃついた“擬似的な”町並みが存在するからだ。


新宿でも、東口から新宿歌舞伎町にかけての一帯などは歩いて楽しい。客引きだとかが追放されたのは人によって評価がまちまちだろうけど、街の猥雑さ、というのはそれ自体魅力である。人が往来を気兼ね無く歩けるのは楽しい事なのだ。一方で西口の高層ビル群の周辺、つまり都庁周辺だが、は歩くのは向かない。歩道も整備されているが車道を車はビュンビュン飛ばす。景色も殺風景で、歩いても歩いても景色に変化がない。街路樹すらもいたって無機質だ。何もかもが楽しくない。どれもが「ヒューマンスケール」じゃないのである。ところが、西口側でも「思い出横町」などはグッと親しみが湧く。


どうやら歩いて楽しい町、というのはある程度の法則があるのだ。


・巨大すぎない店舗や家並みがあること
・厳格にゾーニングされていないこと
・その店舗や家並みが路に面していること
・路の両脇が自由に行き来出来ること
・つまり、路に車が少ないこと
・先が見通せないように、路が適度に入り組み、くねっていること


これが、自分の歩いてみて楽しい町、の法則であるが、現在の街づくりは、むしろこれらを否定する方向へ進んでいる。


・巨大な店舗やモニュメント的な公共建築を建造し
・都市計画で厳格にゾーニングを行い
・店舗や家の入り口は路から離れるように建て直され
・路を拡張し、車が通行しやすくし、人は歩道へ上げられ
・路を真っ直ぐに、街を碁盤目状に整理する


自分の感覚が的外れなのだろうか。だが、以前紹介したジェーン・ジェイコブスやアレグサンダーの提唱する「人の住みやすい街」は、むしろ自分の“感覚”に近い感じがする。

第一に、都市の各地区は二つ以上の機能を持つべきである。住宅地区、商業地区のように各地区に単一の機能を持たせるゾーニングは人の往来を偏らせ、治安上も良くない。第二に、長く広い道路は人の往来を分断するので、小さな街路が何本も交差し、街角を曲がる機会が多い方が良い。第三に、なるべく古い建物を残し、活用するべきである。新しいビルは減価償却費がかさみ、高額の家賃を払えない若手事業者などは入居できなくなるからである。そして第四に、各地区の人口密度は充分に高くなければならない。

http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20070403/1175588517


ジェイコブスがこの原則を提唱したのが1961年。アレグサンダーが「パタン・ランゲージ」を記したのが1977年。現在の日本における「都市計画」は、大体がそれら以降に立てられたものにも関わらず、それらを否定する方向へ進んでいる。むしろ日本においても「列島改造論」が登場する以前の「都市施策」の方がジェイコブスやアレグサンダーの理論に近い。これはいかなる理由によるものなのだろうか。


現在の街づくりの手本、を探していくと、二つのサンプルに行き着いた。一つはローマの新都市計画、エウル(EUR’42)。もう一つがベルリンの新都市計画、ゲルマニアである。


エウルはファシスト政権樹立後のムッソリーニによって進められた計画であり、広い街路と巨大でシンボリックな建造物からなるファシズム・イタリアの象徴となるべく運命づけられた都市である。
ゲルマニアヒトラーが軍需相、シュペーアに命じて計画を立てさせた、千年帝国を象徴する首都となるはずの新都市である。広い街路と区割り、巨大でシンボリックな建造物はさらに磨きが掛かっている。ヒトラーはベルリン陥落が迫った時でも、戦争が終わった後に廃墟と化したベルリンをゲルマニアとして刷新するつもりであったという。ヒトラーにとってベルリンの破壊も地ならしでしか無かったのだろうか。そこには数百万の人々が住んでいたのだが。


巨大でシンボリックな建築物と、整然とした区割り、自動車がシームレスに行き交う広い街路、それは自動車産業の登場と鉄筋コンクリートによる巨大建築が可能となった頃から「未来都市」の象徴となった。エオルもゲルマニアも、それは、その時代の「未来」を志向した独裁者の夢が現れたものだった。


実際に自動車が一般市民に行き渡り、鉄筋コンクリートによる建築が当たり前のものになった時代に、その反省としてジェイコブスの「都市理論」は登場した。日本の先を進むアメリカ、の反省とも云えるだろう。


だが、日本はジェイコブスの「反省」にも目をくれず、1930年代の古くさい「独裁者の夢」を実現すべく突き進んでいる。1990年代のポストバブル期にも、見直す様子は無く、むしろ、景気浮揚の公共事業、としてその流れはさらに加速してきている。それを全力で後押しするのが「道路特定財源」の存在だ。


エオルもゲルマニアも戦争終結、独裁者の死と共に潰えた。現在は僅かな遺構や青写真が残るにすぎない。未来都市の廃墟、それは日本の数年先の姿となるかもしれない。


追記:写真は新規道路建設に伴いどかされる家々と潰される畑 藤枝市にて