シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

ソフィーは姑獲鳥の夢をみるか

ウォルターはそんなことで安心はしなかった。"あいつを眠らせる"とか"やつらを眠らせる"と言うのはマフィアの使う言葉だと知っていたからだ。母親から離れた。もう母親の慰めの言葉などいらなかった。彼からすれば、母親はそんなものはとうに吹き飛ばしてしまったのだ。彼女自身の何かを、彼女が信じ、考え、そしておそらく行動していることの根源をのぞかせてしまったのだ。
 まだ人間じゃない フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫

− おれたち打ちひしがれて、希望もなく、苦しみのなかで死んでいかなければならなかった者はどうなるのか? おお、生者よ、おまえたちはただ自分が生きているというだけで、そんなにも傲慢になれるものなのか。自分は人間として生きたいなどと、臆面もなくいうことができるのか……それほど生者は死者に勝っているのか。おれたち死んだ人間はどうなるのだ?死んだ人間の正義はどうなるのか。おれたちただ踏みにじられるままに、死んでいかなければならなかった人間の苦しみは決して癒されることがないというのか
 顔のない神々 山田正紀 角川文庫

(略)
種を保存する上で、一番適切なのは大きい方の子猿なんだ。生物の母性とはそうしたものだ。危険を冒して小さい猿を助けても、自分を含めて生き残れるかどうか解らない。しかし、大きい子猿ならその確率は格段に高い。個体の愛情は遺伝子の命令に勝てはしない。
(中略)
それを文化と呼ぶか、知性と呼ぶか、人間性と呼ぶか それは勝手だが、とにかく万物の霊長の奢りは、もうひとつの価値を構築してしまった。これが同じ方向を向いているうちはいい。しかし全く逆の方向を向いたとき、我我は戸惑ってしまう。そしてそのズレを埋めるためにも怪異は発生するのだ。
 姑獲鳥の夏 京極夏彦 講談社文庫


前のエントリーに載せておいたんですが、まったく反応の出なかった「ソフィーの選択」。
まさにid:hokusyuさんの仰る「ホロコースト」と「トリアージ」に関わる話なんです。しきりに「ホロコーストトリアージをごっちゃにするな」とか「話が飛躍しすぎ」と述べる輩に読んでほしい本なんですけど、現在絶版。


第二次大戦中、ソフィーは二人の子供エヴァとヤンを伴い、ポーランド強制収容所へ移送されます。そこで酔っぱらったナチのSS軍医に「どちらかの子供を助けてやる。片方は収容所送り。選ばなければ二人とも収容所送り」と選択を迫られます。ソフィーは苦悩しますが、執拗な軍医の問いかけに選ばざるを得なくなります。収容所はビルケナウ。いわゆるアウシュビッツ強制収容所の事です。ソフィーがどちらを選んだのかは本を読んで見てください。


トリアージに従えば、どちらを選ぶべきでしょうね。エヴァは女の子ですから、巧く立ち回れば生き残れる可能性は高い。美人ならなおさらです。いやいや、ヤンは男の子ですから、体力面で生き残れる可能性が高い。
でも、大概の人はそんなレベルで選択出来るでしょうか。まず、無理でしょう。
え、こんな事をトリアージと一緒にするな?ナチスの暴虐と事故や災害は一緒に出来ないだって?そんな事は、“選ばざるを得ない”人にとっては関係が無いのです。人為が関わろうと、自然現象であろうと、選択を迫る段階で、それは選択者にとって“悪意”なのですよ。
事故や災害時の緊急医療現場におけるトリアージが“かわいそう”でないのなら、ソフィーも“かわいそう”ではないのです。それしか手段がないのなら、それは“やむを得ない”事なのです。そうでしょ?ソフィーは「彼女の手に入れられるリソースを最大限効果的に生かす選択」を行えばいいのであって、かわいそうでは“お話にならない”のです。片方だけでも生かしておいてやるのは、最大限の猶予なのです。その条件に沿う選択をすることが合理的なのです。
そう斬って捨てるのなら、それは選択を迫ったナチの軍医と同じなのですよ。


動物の世界では「姑獲鳥の夏」で描かれたとおりです。動物は生き残る可能性の多い方を選択します。果たして動物に葛藤が無いのかどうかは私には判断がつきかねますが、人間は動物ほどは割り切る事は出来ない。その葛藤こそが産女を見せるのだ、と京極堂は説きます。葛藤を持つことさえしないのであれば、産女を見ることもないのでしょう。


私は葛藤を持つ事を否定しません。葛藤を持ちつつ、それを乗り越える事は認めます。ですが、葛藤から目を逸らす事が素晴らしいとは思わないのです。
「困った時にはトリアージ! 難題一挙解決!!」