シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

La Vie en rose (後編)

このエントリーは La Vie en rose (前・中編) の続きです。


彼女の新居は実は勤め先からえらく離れていた。実に車で高速道路を経て1時間半。連れ合いではなく、彼女が高速道路で自動車通勤するのだ、と知った。どういう事だ?
そもそも、彼女は結婚をだいぶ迷っていたという。相手は大学時代の交際相手だが、仕事を続けるには距離が離れているので躊躇っていたのだ。彼女が結婚を決意したのは結婚相手が


・自動車で高速を使えば何とか職場に通えると説得して見せた
・彼女の職場近くの職場に転勤を希望しており、そのうち通勤に苦労しなくて済むと約束した


そして、これが大きかったようだが
・相談した職場の人が「大丈夫」と後押しした


その人に尋ねてみた。
「彼女が通勤に苦労するようになるのを知ってたんですよね。」
「でも、1時間半の通勤なんて大した事じゃないじゃないの。」
「公共交通機関ならともかく、自動車で、それも高速道路使用ですよ。だいたいいつまで続けられると思うんですか。子供が出来たらどうしたらいいんです。」
「まぁ、相手もそのうち近くに転勤するって言ってるし。」
「その転勤先ってどういうところです?」
「なんか研究所らしいよ。」
「研究所!? 判ってるんでしょ! 相手の人は学部卒ですよ。学部卒を入れてくれる研究所なんてまずありませんよ。そんな低い可能性に賭けさせたんですか?」
「本人がそれでいいっていうんだからいいじゃないの。その時はなるようになるでしょ。」
「…」


自分が諦めざるを得なかったからこそ彼女には幸せになって欲しいのだが、なんか心配になってくる。オレは娘の幸せを祈る父親か。
それにしても、オレのところから1時間半掛ければ通えるから結婚しよう、とか、あり得ない事だと知りつつ研究所に移るから、と言ってしまえる男に負けた訳か、オレは。彼女が結構悩んでいたのも判るような感じがした。であればこそ、悩みを打ち明けてくれればよかったのに。


彼女に再び会った時、聞いてみたのだった。聞くなと言われていたが。
「なぜ、正直に結婚に悩んでいるって教えてくれなかったの?」
「ギリギリまで本当に結婚出来るか悩んでいたから…」
「そういうのこそ相談に乗って上げられたのに。言いふらされるかもって思ったの?信頼出来なかった?」
「信頼してなかった訳じゃないよ。」
「じゃあ、付き合っている人はいない、って言っていたのはなぜ?」
「婚約はしてたけど、付き合っていた訳じゃないから…」
えぇ!それは無いでしょう。幾ら何でも。連れ合いにも失礼じゃん。言いたくなかったのも、信頼していなかったのも仕方ないだろうけど、そんなごまかし方どうよ。さすがに据えかねてきつい事を言う。

「知り合いに話したら『さすがに付き合っている人はいない、といって結婚する、というのはヒドいじゃないの』って言ってたけど…」

その言葉を聞いて、彼女の表情が真っ青になる。そしてブルブルと震えて、なにやら呟いた。
「え、どうしたの?」
「…って言ったの? ヒドいって…」
「え?」
「みんな知ってるんだ…」
「みんなは知らないよ」
「でも、知り合いにって言った…」
「知り合いってのは、オレの友達だよ。職場で話したりしてないって」
彼女はホッとした表情になって、そしてボロボロと泣き始めた。
「本当だね。私、最低だね。」


そんな言葉が聞きたかった訳じゃないんだけど。なぜか、が知りたかっただけなのに。それにしても、職場に知れたかもしれない、ということで、それがヒドい事だと考えるに至ったというなら、どうやらオレがどんな心境だったかは気にも掛けていなかったのか。泣きじゃくる彼女を逆に 泣きたいのはこっちの方だよ 慰めているうちに彼女との距離が開いた事を感じる。ついこないだまでは、一緒にやっていける人だと思っていたのに。


彼女と会ったのはそれが最後になった。メールはしばらくやりとりしていたが、それもいつしか終わる。自分はようやく常勤の職に就き、祖母は介護先が見つかった。祖母は一年ほど介護を受け、亡くなった。祖母が亡くなっても悲しいとは思えなかった。介護の頃といい、施設での姿といい、すでに祖母はいなくなっていたのだ。葬儀とはそれを再確認するためのものでしかなかった。
全てが片づいた時、これらが片づいたらと考えていたのに、自分には何も無くなっていた。


先日、彼女が仕事を辞めるという話を聞いた。彼女の連れ合いが、より離れたところに転勤になるのでもはや通勤が出来なくなるという話だった。なんて事だろう。自分の予測は最悪の形で的中した。
周囲は残念がったそうだ。何言ってるんだか。そうなる事は最初から予測が付いたじゃないか。
未だに女性が職を得る事は簡単じゃない。一旦、辞めてしまえば以前と同じような条件の職に就く事はまず無理だ。しかもこのご時世、職を得たい女性は幾らもいるのに、辞めて離れた土地へ行けば、仕事を見つける事は難しい。彼女は専業主婦となるのだろうか。結婚した事で仕事を代償にしてもいいと思えるものを見つけたのだろうか。そうであるならば、それは喜ばしい事であるのだが。


一つ確実な事がある。それは、彼女がこうなる事が判っていたら結婚に踏み切る事は無かっただろう、ということだ。そうであったなら、果たして彼女は自分の求愛に答えてくれただろうか。それは判らない。だが、彼女はきっと仕事と両立出来る相手を探し、そして見つけただろう。しかし、現実には自らの職を諦める事を彼女は選択した。それが吉と出るかは判らないが、幸せになれればいいと願う。


彼女からメッセージを貰った。こうあった。「たくさんの事、本当にごめんなさい。そしてありがとうございました。」
ふと気づくと、自分が思い起こせる彼女の姿は、最後に見たうつむき加減の半泣きの姿しかない。かつて彼女はニコニコとよく微笑む女性だったのに。何一つ手に入れられなかった自分には、せめてLa Vie en roseの笑顔が思い出せればと思う。