シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

ぼくリバタリアン!

この間のエントリー上げてから、なんかまだ下らない事を書き連ねているなぁ。


何が「善」であるかは必ずしもはっきりしないが、何が「強制」であるかははっきりしている
http://mojix.org/2010/10/18/zen-kyousei

私にとっては、「人類の本質」よりも「自由」のほうが明快な概念である。何が「自由」で、何が「強制」かは、子供でもわかると思う。「人類の本質」が何かはわからないが、それに「自由」に反する部分があるのだとすれば、それこそ悲劇を引き起こす要因であり、理性によって抑え込むべき部分ではないだろうか。

リバタリアニズムは「善」を否定していない。リバタリアニズムが否定するのは「強制」である。何が「善」であるかは必ずしもはっきりしないが、何が「強制」であるかははっきりしている。何が「善」なのか、何が「人類の本質」かといった「本質論」を問うことなしに、現実の「強制」に反対するのがリバタリアニズムの立場である。

リバタリアニズムは「善」を否定しているのではなく、「強制」を否定している。よって「強制的な善」は否定するが、「強制的ではない善」、つまり「合意にもとづく善」はまったく否定していない。社会を形成する秩序がもっとも望ましいものになるのは、この「合意にもとづく善」が秩序として具現化したような場合だろうと思う。


まるで勘違いだから。「自由」の概念について自体様々に論考されている。単純なレベルで言えば、二人以上の人間がいれば、その「自由」は対立をもたらす可能性があるわけで*1、強制やらなにやらの話がメタメタ。


もともと、リバタリアンを自称するなら、もっともパターナリズム的なのは「軍事」と「警察(司法)」なのだが、そのことに踏み込んでいる様子も無いしね。もちろん、リバタリアンにおいては「夜警国家」として「軍事」「警察」の存在は最低限のシステムとして認める考えがあることは承知している。が、だ。軍事や警察の有り様というものはリバタリアンなら常に考慮の対象となるものだ((例えば、「イラク戦争」を含めたブッシュ政権の対外的な軍事行使はリバタリアンの立場から批判があった)。
だが、mojixのエントリーに共感を寄せるような輩は、軍事力や警察力の有り様というものに懐疑的ではない、というかどちらかといえば軍事力信奉が多いんじゃないの?


それに、mojixのエントリーの「正義」や「善」、「強制」の考えからはアプリオリに「夜警国家」を引き出すことは出来ない。

社会を形成する秩序がもっとも望ましいものになるのは、この「合意にもとづく善」が秩序として具現化したような場合だろうと思う。

という論点で正当化するならば、それこそ教育・福祉・医療等の社会福祉政策だって導くことは可能だろう。適当な線引きしてそちらは「強制」、こちらは「合意」とやってしまうのは、多分に葛藤が無いからだろう。


軍事力はその「強制」という点で、最も「正義」「善」を「強制」する。その「強制」は時に人の命を奪う事さえ「正義」や「善」として正当化可能だ。「イラク戦争」の開戦理由というものがどういう「正義」を要求したのか覚えているのなら、事は明らかだろう。だがmojixがイラク戦争やそれに荷担した自民党政権に批判的であった様子は無いようだし、今でもそれを問題視している様子も無い。警察(司法)も同じ。人の「自由」さえ奪いかねない力を有するわけで、その運用には慎重であるべき、というのはリバタリアンなら触れざるを得ない部分だ。


もちろん判ってはいる。何度も書いてきたように、自称リバタリアンは「自由」というものを真剣に考えているわけではない。単純に「自分の好き勝手にさせろ」と言っているだけなのだ。
そんなわけで、「自由」に関する葛藤もない戯言をほざく連中やその主張を“リバタリアン”や“リバタリアニズム”などとは言いたくないのである。


まあ、自称リバタリアンの元祖、ミルトン・フリードマン自身がチリのピノチェト軍政を賞賛したし、ハイエクも批判したりはしなかったわけで、そんなものだろうな、と考えるのであった。

ハイエクと新自由主義―ハイエクの政治経済学研究

ハイエクと新自由主義―ハイエクの政治経済学研究

*1:アマルティア・センの「パレート派リベラルの不可能性定理」でも読め