シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

小田嶋隆の無様な認識

いやー、タカシ!ダメすぎ!
それにしても、河村タカシや上杉タカシだけじゃなくて、小田嶋タカシまでとは。


レッテルとしてのフクシマ
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120322/230156/

まるで関係の無い話に聞こえるかもしれないが、私は、南京大虐殺についての言論状況を連想する。
 南京事件について意見を言おうとしているのではない。
 ただ、南京をめぐる話が、猛烈にめんどうくさいことになっている点を指摘することで、福島関連の議論が、同じ状況に陥らないように注意を促したいだけだ。
 福島は、南京化しつつある。これは、とてもよくない傾向だ。
特定の事件について、二つの対立する勢力が、互いに相容れない見解をぶつけあっている場合、議論は、空洞化する。歩み寄る姿勢を持たない論争は、平行線どころか、より対立を深める方向で推移するものなのだ。

 特に、対立する論敵同士が、事件を政治的に利用する目的で自説を展開した場合、両者の議論は、両極端に向かってむしろ分裂して行く。論敵がフェアな相手でないと判断した論者は、自分だけがフェアな態度でいると、論争に負けてしまうと考えて、結果、自らもアンフェアな態度で議論に臨むようになる。かくしてディベートは荒れる。証言は捏造され、証拠は隠蔽され、データは恣意的に引用され、テーブルをはさんだ両者は、相手を貶めることだけを目的に言辞を弄するようになる。

 時間がたつと、真相は事件の発生直後よりさらにわかりにくくなっている。
 わかりにくいだけではない。一般の人間にとっては、その事件に関わること自体がリスクになる。すなわち、「えんがちょ」だ。触れるだけで汚れが感染する、汚染源みたいな話題――南京大虐殺は、既にそういうタームになっている。テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ。一般人は一瞥を送ろうとさえしない。


歴史修正主義の問題に対して、「南京化」「えんがちょ」「テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ」ですってよ。南京事件に限らず、日本政府(および日本人)が戦争責任問題と正面から向き合おうとしなかった姿勢と中国・韓国(およびアジア諸国)に対する根深い差別感が歴史修正主義の根本にあるわけで、その部分をザックリ無視して、「揉めてるようにみえるから面倒くさい」レベルの話を堂々と展開してしまうわけだ。これじゃあ、この間述べた事を証明しちゃってるじゃないの。


「科学的基準 キリッ」じゃすまない、って話
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20120320/1332247961

一方で、歴史修正主義者はいきなり「人数」を問題にしはじめます。「30万人殺されたのが信じられないだけ」とか、「人口20万人の都市で30万人殺されるわけがない」とか。物理的に不可能、というテンプレもあります。そもそもクレームを付けるポイントが“そこ”なわけです。そして、一貫して背景や構造について触れようとしません。せいぜい、「戦争だから人が死ぬのは当然」というレベルで済まそうとする。


それにしてもだ、

差別だとか、風評被害だとか、大げさに言い立てるつもりはない。
 でも、「郡山市に人は住めない」は、やはり、率直に申し上げて無神経だと思う。


なら、南京事件にも被害者がいて、現在でも被害者や遺族、関係者がいる、ということに対して「南京化」なんて言い方は、やはり、率直に申し上げて無神経だと思う*1


参考:
夏淑琴さんは「ニセ証人」か?
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/kashukukinsapio.html


これも。

何十年かたった頃、第一原発の周辺には、原発事故が存在しなかった旨を主張する人々が住んでいるかもしれない。
 そして、一方には、60万人の犠牲者が出たと言い張る団体が謝罪と賠償を求めてシュプレヒコールを繰り返している。
 どちらか一方がウソをついているのではない。両者のいずれもがウソをついている。それも、真実のために、だ。なんということだろう。


現在、水俣病の未認定患者や広島・長崎の低線量被曝者が認定や救済を求めている事を考えれば、無神経と思わないのだろうか。


参考:
水俣病患者の認定を義務付け 遺族が逆転勝訴
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/289168


広島・長崎原爆の遠距離被爆者と入市被爆者の急性放射線症状
http://www.ask.ne.jp/~hankaku/html/tnk.html


さて、正しく恐れよの人の多くは反原発、っていう話なら、「正しく怖れよ」の人は、このタカシのヨタ話をキッチリ批判できないと話にならないよ?でないと、「正しく怖れよ」「過剰に怖れすぎ」な人々の本音が、せいぜい
「東電や政府の話は楽天的過ぎるけど、反(脱)原発を主張する連中も極端だよな」
という“バランスの取れた”スタンスを演出しようとしている、という事を示してしまうからね。


ま、こういうバカがバッチリ裸踊りしてくれてるけど。

南京に例えるのは的を射ていると思うがね。「大規模虐殺はあったけど100万人はねーだろ」と言っても「大量被曝は危険だけど今のレベルで大量に人が死ぬこたない」と言っても、頭のおかしい人がおしかけてくる。

http://b.hatena.ne.jp/sukemasa_fujiwara/20120323#bookmark-86458973


ちょっと考えてほしいのだが、
ドイツで人気のコラムニストが雑誌(シュピーゲルでも何でもいい)のサイトの連載で、

まるで関係の無い話に聞こえるかもしれないが、私は、アウシュビッツについての言論状況を連想する。
 ホロコーストについて意見を言おうとしているのではない。
 ただ、アウシュビッツをめぐる話が、猛烈にめんどうくさいことになっている点を指摘することで、fukushima関連の議論が、同じ状況に陥らないように注意を促したいだけだ。
 福島は、アウシュビッツ化しつつある。これは、とてもよくない傾向だ。
特定の事件について、二つの対立する勢力が、互いに相容れない見解をぶつけあっている場合、議論は、空洞化する。歩み寄る姿勢を持たない論争は、平行線どころか、より対立を深める方向で推移するものなのだ。

 特に、対立する論敵同士が、事件を政治的に利用する目的で自説を展開した場合、両者の議論は、両極端に向かってむしろ分裂して行く。論敵がフェアな相手でないと判断した論者は、自分だけがフェアな態度でいると、論争に負けてしまうと考えて、結果、自らもアンフェアな態度で議論に臨むようになる。かくしてディベートは荒れる。証言は捏造され、証拠は隠蔽され、データは恣意的に引用され、テーブルをはさんだ両者は、相手を貶めることだけを目的に言辞を弄するようになる。

 時間がたつと、真相は事件の発生直後よりさらにわかりにくくなっている。
 わかりにくいだけではない。一般の人間にとっては、その事件に関わること自体がリスクになる。すなわち、「TATARI」だ。触れるだけで汚れが感染する、汚染源みたいな話題――アウシュビッツは、既にそういうタームになっている。テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ。一般人は一瞥を送ろうとさえしない。


なんて書いたらどうなると思う?間違いなくそいつは猛烈な批判にさらされ、連載は中止に追い込まれ、掲載を認めた編集者も閑職へ飛ばされるだろう*2


上杉タカシの批判をするのは大いにやるべし。でも、その手段として南京事件を持ち出して、こういう無惨な認識を示し、編集者もそれを掲載するのは問題なしと考え、それに大勢が賞賛する。
ウンザリするね。

宝子たち―胎児性水俣病に学んだ50年

宝子たち―胎児性水俣病に学んだ50年

*1:人が住んでいる、という事をもって危険性を主張するな、という意見がたまに見受けられるけど、なら、イラク戦争時のイラクをどう考えるのだろうか?イラク渡航制限される地域となり、香田君は殺されても当然、という扱いを受けていたが。

*2:なんなら、アメリカの雑誌サイトに「進化論化」と掲載された場合どう思うか?でもいい