シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

女性の「資源」扱いはやめましょう

信じてくれよ。たとえ世界じゅうでもっとも哀れで惨めな男になろうと、女でいることよりはましなんだ。考えてみろよ、女が男に対するときにいつも、真面目な会話をしていると思われるときでさえ、顔のかわりに男の股間を見つめていたとしたら?そんなことはありえないと思うか?ぼくらがホテルで出会ったときに、きみはまさにそれと同じことをぼくにしたんだ。八割がた、きみの目はぼくのおっぱいに向けられ、ぼくにはきみがなにを考えているかが手に取るようにわかった。
(震える血 祥伝社文庫 より引用*1 )


ひどい動画を見てしまいました。(グロ注意!)


鹿児島県志布志市が、ふるさと納税PR動画『うな子』を公開
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000021507.html


ウナギを擬人化、それも少女に、して、「養って。」と言わせるとか、もう作ったヤツの神経を疑うレベルです。
こんなものが公開されるまで誰かが批判したりしなかったんでしょうか?それとも、女性側から批判しにくい組織だったのか、批判を受け付けないような組織だったのか。
いい加減、女性を自分たちに都合のいいモノ扱いするのはやめたらどうですか?
都合のいい存在としてチンコ妄想を膨らまさなければいられませんか?


この話はエロやセックスが好き、という話とは違いますよ。キモイ願望丸出しなのを、表現の自由だ、と開き直るのをやめろ、という話です。

女とエロス 浜野佐知
「暴走女子と行くピンクツアー」という女性だけでピンク映画を見るツアーが私の新作映画の公開のたびに企画され、女性専用席を作ってもらった成人映画館で、女性たちが笑い声を上げながらスクリーンに観入っている。1962年から始まったピンク映画の歴史の中で、かつてこんな光景があっただろうか?
作り手も男、観客も男、描かれる性の主体も男、というピンク映画業界で、たった一人の女性監督として孤軍奮闘しながら、私が40年以上にわたって撮り続けてきたテーマは「女の性を女の手に取り戻す」ことだった。
レイプされても女は感じる?女は身体で分からせる?ふざけたこと、言ってんじゃねーよ!と男の身勝手な性幻想にNO!を突き付け、私の身体は私のもの、男の欲望のためではなく、自らの意思で性を楽しむ女を描いてきた。
だが、作品にどんなメッセージを込めてもピンク映画である以上、観客は男ばかりで女性には届かない。それが長い間私のジレンマだったのだが、今、目の前で世代を超えた女性たちが私のピンク映画に共感し楽しんでいるのだ。
先月、北九州市で高齢女性の性愛を描いた「百合祭」の上映会があり、観に来てくれた女性たちから、私のピンク映画が観たい、との声が上がった。女にだってエロスを楽しむ権利がある。ジレンマから解放された私の真のピンク映画監督人生がこれからなのだとしたら、100歳になっても女のエロスを撮り続ける覚悟である。
(映画監督)(静岡新聞 2015年9月15日夕刊 コラム窓辺 より引用)

女が映画を作るとき (平凡社新書)

女が映画を作るとき (平凡社新書)


いい加減、女性を手前に都合のいい「資源」扱いするのをやめて、一人の人間として向き合った方がいいですよ。
でなければ、キッチリそのツケを払わされることになりますよ。
では。

(略)きみを人間じゃなくセックスの道具とか見ないクズどもに復讐するために、だれかを物色しはじめるだろう。

震える血 (祥伝社文庫)

震える血 (祥伝社文庫)

抱く女

抱く女

*1:アンソロジーですが、引用元のタイトルと著者はネタバレ防止のために記述しません