シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

自動車が無いと暮らせない、のなら、暮らさなくていい

高齢者運転事故起こさぬため…娘奪われた遺族の訴え
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000091249.html


横浜の小1死亡事故、88歳男性を不起訴 認知症と診断
http://www.asahi.com/articles/ASK305RGHK30ULOB018.html


このところ、静岡でも「高齢者」による自動車事故の話が持ち上がっています。突如として増えたように思いますが、実際にはもうだいぶ前から、誤運転も含め、問題ではあったのですが、ようやく取り上げられるようになったようです。こうした事故が起こると、免許の事故返納などと併せて登場するお決まりのセリフがあります。
すなわち、「クルマが無いと暮らせない」
このセリフを聞くたびにイラッとして、「クルマが無いと暮らせないのなら、暮らさなくていい」と言いたくなります。なぜなら、このセリフ自体が、思考停止ワードになっているからです。その背景について説明していきましょう。


まず、「クルマが無いと暮らせない」と主張する郊外生活者は、今まで様々な理由で免許が無かったり持たなかったり、クルマを持たなかった、持てなかった人をどう捉えていたのでしょうか?
郊外型の生活はクルマの存在が前提となっています。日本の地方行政はずっと郊外開発を重点とした都市施策を実施してきましたから、地方においてクルマ非利用者は無視された存在だったのです。僅かしかない交通機関も、徒歩・自転車移動圏内の商店も奪われる立場にあった人たちは今まで省みられませんでした。こうした交通弱者には子どもやお年寄り、障害者、貧困者が含まれます。だから無視されてきたのかもしれませんけど。


酷いケースとしては、岐阜の「何でもかんでもドライブスルー」が挙げられるでしょう。こうした面からは、クルマを利用しない人は客として扱わない姿勢が現れています。この状況に順応した人々が「クルマが無いと暮らせない」などと言っても、私としては「ドアホ」で済ますでしょう。


ドライブスルーATM
https://www.okb.co.jp/personal/conveni/atm_feature.html


日本の例では無いですが、エリック・シュローサの「ファストフードが世界を食いつくす 」には、クルマを持つ事が出来ないメキシコ系の少女が長距離を徒歩で移動せざるを得ない状況が描かれています。誰もがそれを自分の身に置き換えて考える事が無かった。クルマを持たないヤツの自己責任ということなのでしょう。
自分達がその立場に立たざるを得ない状況になって始めて、問題に気づき、うろたえ、「クルマが無いと暮らせない、手放せない」と主張するのです。

文庫 ファストフードが世界を食いつくす (草思社文庫)

文庫 ファストフードが世界を食いつくす (草思社文庫)

私は以前からクルマに頼った交通と、それに適した郊外型生活スタイルに異議を唱え、政策を転換すべきだと主張してきました。もちろん、そうした考えは、「現実的じゃない」から、とほとんど相手にされなかったわけですが。
今後も交通難民は増加するでしょう。問題を早くに認識し、行動に移していればこんな状況になってからうろたえることも無かったわけです。


「クルマが無いと暮らせない」には対になる言葉があります。「公共交通機関が整備されていない」。しかし、実際には貧弱だったとはいえ存在していた公共交通機関を壊滅においやったのがクルマだった、という事も無視されています。


ちょっと地域の例を挙げましょう。私の住む地域にはかつて静岡鉄道「駿遠線」という「日本最長の軽便鉄道」がありました。東海道線藤枝駅」と隣り合う「藤枝駅」から「袋井駅」まで相良・御前崎方面を経由する総延長64.6?kmの軽便鉄道。収益をあげる事が難しく、路線の短縮化などで少しずつ短くはなり、最後は1970年に廃線となりました。現在でも残っていれば、地域の路面電車となりえたでしょう。


静岡鉄道駿遠線
http://qq1q.biz/AHG3


しかし、モータリゼーションの進展によって廃線に追いこまれたのです。その際に、代替交通手段としてバス路線が作られましたが、そのバス路線も自動車によって苦戦を強いられています。ちなみに、かつての路線跡近くの国道150号線大井川橋は朝夕慢性的な渋滞が起こり、静岡県はその上流下流に渋滞緩和のための橋を造っています。
地方行政は「駿遠線」を支援するのではなく、自動車交通を拡大しようとしたわけです。
「公共交通機関が整備されていない」ですって?どのツラ下げてそんな台詞を吐くんでしょうね。
各地の路面電車(昨今は復権著しいが)が“渋滞を招く”として廃線になったケースは多かったはずです。クルマを優先して、公共交通機関を無くしたのです。


岐阜の路面電車   繁栄〜終焉〜廃墟〜そして、何も無くなった
http://www.geocities.jp/teamkokudo/tyousen/romen/romen.htm


こうした交通弱者を無視した自動車交通優先のスタイルを早くから批判した人もいます。宇沢先生の「自動車の社会的費用」は時代を越えた名著としか言いようがありません。ちなみに宇沢先生は自家用車を拒否し、かなりの距離でも徒歩で通したそうです。まあ、私は自転車使いますけど。

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

交通弱者の立場に立たされる事になった人々が言うべきセリフは、「クルマが無いと暮らせない。だからクルマを持たせろ、運転させろ」ではありません。「クルマが無いと暮らせない、というスタイルから決別しよう、そのための施策を立てろ」であるべきです。

歩いて用の足りる街、コンパクトに纏まった街とすべき、というのは、単に中心市街地衰退や行政コストの問題だけでは無いのです*1
では。

*1:もちろん、山村などでの自動車利用を止めさせるという話ではないことは言うまでもない。そうした地域で自動車を利用するのは合理性がある。私が問題視するのは、都市構造を破壊して郊外化させることと、それに合わせた自動車利用であり居住者数が全然違う