シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

時代遅れの原子力 その3

原子力の存在は古い科学観、自然観に立っている事を説明してきた。特に問題なのが自然観に対する古さ=理解不足である。この理解不足は原子力だけではなく、遺伝子組み換え作物などにも共通しているのだが、結局の所「人間は自然をより良く改変し得る」という発想から来ているように思う。つまり、自然環境は(人間にとって)制御可能な存在であるという事は、人間の能力に対する自信過剰であり、自然に対する認識不足の二つの点で問題があるのだ。


その事をハッキリ示してくれたのが、レイチェル・カーソンである。


カーソンが出版した「沈黙の春」は、当時の社会に多大なるインパクトを与えた。それは、実は農薬(DDT)の生物毒性問題だけでなく、自然環境は人間の想像するより容易に人間の活動の影響を受けやすく、かつ、その影響は人間に戻ってくること。を示したからである。
化学工業業界からの執拗な反撃と中傷はそれゆえ、である。
1939年、スイスのミュラー等が発明したDDT。それは単に強力な殺虫剤だっただけではない、工業的副産物で持て余しものだった塩素の有効利用でもあった。何より有機塩素系化合物、の合成生産は「人間が自然界を凌駕した物質を創りうる」事を意味していると考えられた。人間は自然より優れた物質を創り出し、その技術は自然を「人間に好ましい方向に」改変しうるという事である。
それゆえ、科(化)学の、人間の自然に対する勝利としてのシンボルとなり得た。ミュラーノーベル賞を受賞している。
だから、DDTはあらゆる「害虫」の生息域にバラ播かれた。蚊の、ハエの、シラミの、蚤の。山で、沼で、畑で、森で、バラ播かれたのだ。自然を、人間にとって都合の良い、害虫の生息しない、世界に変えるために。


それに対してレイチェル・カーソンは、「DDTを自然界にバラ播くことは、生態系のバランスを崩し、食物連鎖による生体濃縮によって人間自身にも害が降りかかっている」と告発したのである。


単に化学工業業界の利益を脅かすに留まらない。カーソンは、「人と自然は対立概念」「人間はその技術進歩によって、より良く自然を変えていける」という考えを完全に解体してしまったのだ。
それゆえに全方位から攻撃を受けたわけだが、カーソンは根気強く反論し、彼女の主張は社会に受け入れられるに至った。にも関わらず、カーソンの言葉の意味は過小に捉えられ、単に“農薬の使いすぎに注意”レベルに留まっているようだ。だが、彼女は農薬の問題に留まらず、人間が自然生態系の一部であり、生態系は密接に関連しあっており、自分たちの産み出したものは自分たちにも影響を及ぼし、その影響は思いも掛けぬものになる、事を示したのである。


我々日本人もその事は身に染みているはずだ。水俣病も同じ構図だったのだから。


生態系、自然は機械的要素の結合、精密時計のような存在=コスモス(調和)などではなく、密接に関連し合い、影響を及ぼしあう混在した存在=ケイオス(混沌)である。機械であるならその成り行きを予測し、より良く改変する事も可能だろう。しかし、このごった煮の世界は成り行きを予測し、より良く改変する事は困難である。


カーソンは自然を、生態系を観察することの重要性を説いた。生態系を観察し、その生物同士の関係性に着目し、それを巧く利用することを勧めている。自然を理解しないまま変えてしまうのではなく、自然を充分に理解し巧く利用する。それは、現在世界の環境団体が提唱している「持続可能性(Sustinable)技術」であり、かつて「代替(Alternative)技術」と呼ばれたものだ。巨大な機械力を持つ以前の人間が普通に行ってきた事をリファインする事でもある。
環境への影響を最低限に留め、自然界の循環を巧く利用する事、が必需となる。


原子力、にはそれが無い。


原子力は生態系に適合できないからだ。徹頭徹尾、「反」生態系的である。
生態系を駆動する力はそのほとんどが太陽光である。太陽光は地上に降り注いで、オゾンを作り出し、地表や海水を暖め、雲を作り、風を起こし、光合成回路を駆動する。生態系は光合成によってエネルギーを得、風雨などによって擾乱を受ける。それは、生態系に動的な揺らぎをもたらし、多様性の基となる。生態系の生物が食物連鎖の中でエネルギーを得る中で、代謝物質はエントロピーを増大させる。そのエントロピーは再び光合成によって回収され、物質のエントロピーは減少し、生態系全体のエントロピー収支は多少の揺らぎを見せながらも常にゼロである。物質のエントロピーは赤外放射の形を取って、地球外へ放出される。降り注ぐ太陽光と放出される赤外放射の収支も多少揺らぎながらも常にゼロになる。収支が均衡になる温度は地球環境によって変化し、高温になったり低温になったりする。地球生態系全体は揺らぎつつも釣り合いを保ち続けているのだ。


だが、原子力によって生じる放射性物質(=核廃棄物)は生態系の循環の中でエントロピー回収を行うことが出来ない。生態系はその物質を“扱ったことが”無かったからだ。生物は常に代謝を続けている。これは蓄積されたダメージが生物を損なう前に再構成し直すためだが、とりわけ自然界で“害となる”物質は素早く代謝される、もしくは無害化される。悠久の進化の過程において、それが出来ない生物は駆逐されていったのだろう。自然に存在する有機物質や放射性物質は“対応証明済み”なのである。だが、核反応によって生じる放射性物質の多く、合成有機化合物の一部も同様だが、に対応する能力を獲得していない。従って、DDTのように代謝しきれずに体内に蓄積され、食物連鎖に伴い害を広げる事になる。


従って、人間の世界、生態系、に放射性廃棄物を置く事は出来ない。生態系から「完全に」隔離する必要がある。しかし、人間が赴くことの可能な地球の全ての地点は、生態系の一部だ。一度漏れ出でもすれば、そのダメージを回復する事は困難なのである。その回復に人の出来ることなど無い。自然は人の思いがけぬ程の力を持つ、チェルノブイリ地域の生態系も驚くほどの回復力を見せている。しかし、そのダメージ、回収されないエントロピーは、その中に潜んでいるのだ。人がダメージを軽視することは許される事ではない。


生態系は太陽エネルギーを利用してエネルギー代謝と物質代謝を行い、始末に負えない「廃棄物」を残さない*1。また、何もない(ように見える)環境に繁殖して占める事が可能だ。人間が生態系の一部である以上、人間自身が生態系の代謝を利用したばあい、「廃棄物」を代謝の流れに載せることが出来る。新たな環境に乗り出して行くときも生態系を利用すれば利用物資を増やしていくことが出来る。
しかし、原子力(に限らないが)は生態系の処理に委ねる事が出来ない。そして、原子力では人が必要とする物資を再生産出来ないのだ。


人類が地球で原子力を扱うことは、木造家屋の中で暖を取るために柱に火をつけるようなものだ。
愚かさに気づき、やりくりを付ける手段を手に入れるべきなのである。

沈黙の春

沈黙の春

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー

われらをめぐる海 (ハヤカワ文庫 NF (5))

われらをめぐる海 (ハヤカワ文庫 NF (5))

*1:化石燃料は過去の余剰物の堆積と云えるが