シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

弱った…。

フナイオープンワールド(私のおむすび日記)
http://d.hatena.ne.jp/newmoonakiko/20081012#p1

科学的根拠が権力になることにヘキヘキしている私などは、日本物理学会やマスコミに総反撃されている「水からの伝言」の著者江本勝さんには同情してしまう。「水は言葉がわかるという事実を私は言ってるだけ。このファンタスティクな事実を通して、水の大切さ、言葉の大切さを世界に広めている言ってみれば、アーティスト。なぜかを考えるのが、学者でしょ」と憤懣やるかたない表情で話した。


科学的根拠“だけ”が権力になるとすれば、自分も批判しないわけにはいかないだろう。繰り返すが、倫理を欠いた科学は危険だからだ。
しかし、よりによって「水からの伝言」を取り上げられると、へこんでくる。
物理学者(に限らないが)が指摘しているのは「水は言葉がわかるという事実」自体の検証がおかしい、ということであって、「なぜかを考えるのが、学者でしょ」と逆ギレされても困ってしまう。
水の大切さ、言葉の大切さは、「水伝」が無くても充分に伝えることが出来る。むしろ、そんなオカルティズムに頼らなければならない、と考える方が、水の大切さや、言葉の大切さを軽視しているんじゃないのか?


道端にゴミを捨てたりしてはいけない、というのに「バチが当たるよ。」と諫めるのを悪いとは思わない。「神様、仏様が見ているから」と言ったとしても、それも構わない。むしろ、ばあちゃん達がそう子供に教えるのは良いことだと思う。しかし、その神様(仏様)の正体は、5次元から来た○×である、とか、宇宙から来た▼△だ、などと言い始めたら、やはり批判しないわけにはいかないだろう。科学者に倫理は必要だが、倫理・宗教に科学が必要なわけではない。
宗教の場に科学的装いを被せようとする者達は、実は、神を本当に信仰出来てはいないのではないか?
信仰に本当に必要なのは、「私は信じる」で充分なのである。


それにしても、この人のプロフィール

学習塾の先生と環境雑誌の編集者。二足の草鞋で東奔西走中。であった人、であったことを書きおきま〜す。

を見ると、落ち込んでくるね。どういう環境雑誌なんだろう。


以前に何回か触れてきたが、“環境系はトンデモに引き込まれやすい”。

・講演会にEM菌ビジネスの人が来たり
・汚染のひどい湖(佐鳴湖)の浄化にEMを使ったり
有機農業にシュタイナー農法が利用されたり
有機農業でマクロビオティックが奨励されたり*1
永久機関ビジネスが首を突っ込んだり

あたりを体験してきた。


サスティナブル(持続可能性)な技術・社会、というのは、温暖化対策に限らず、早晩に尽きる化石燃料・資源(ストック)に頼らない社会構造とそれを支える技術体系を汲み上げていくところにポイントがある。
現在のような大量生産、大量消費は化石燃料/資源の存在無しにはありえず、それが尽きればハードランディングせざるを得なくなる。江戸時代に戻る、程度じゃすまない。江戸時代の人口を考えてみるといい。
新たなエネルギー・原料資源を!という考えも結局は同じで地球環境にダメージを与えずにはおられない。なぜなら、温暖化の問題とは単純に二酸化炭素が増える増えないや気温が上がる下がるの問題ではなく、人類が生み出した廃棄物(=エントロピー)が蓄積し、地球生態系が回収しきれなくなった事を意味するからだ。
であればこそ、現在の人類の文明を維持しつつも、地球生態系にダメージを蓄積しない折り合いを付けましょう、というのが、主要環境団体を含めた環境問題に取り組む者のスタンスである。
ある意味、最も現実主義的といえるのだ。


にも関わらず、環境関係でトンデモに引き込まれる人が増えると、「環境」や「エコ(eco)」という言葉に皆が過剰反応しそうで、ため息をつくばかりなのである。

*1:有機農業、というか循環型農業では畜育が欠かせないはずなので、その流れを絶つのは望ましくないはず