シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

夢のあきらめかた

山田太一の面白い話。さすが「ふぞろいの林檎たち」。

【論説】「頑張れば夢はかなう」は幻想、成功者の傲慢だ。そんなにうまくいかないのが普通。「可能性のよき断念」こそ必要ではないか…脚本家・山田太一
頑張れば何でもできると思うのは傲慢 山田太一
「あきらめるな」とよく言います。だから誰でもあきらめさえしなければ夢がかなうような気がしてきますが、そんなことはあまりない。頑張れば何でもできると思うのは幻想だと僕は思う。成功した人にインタビューするからそうなるのであって、失敗者には誰もインタビューしてないじゃないですか。

人間は、生まれ落ちた時からものすごく不平等なものです。国籍も容姿も選べない。
親も子供も選べない。配偶者だって、2、3の候補の中から選ぶのがせいぜいで、
それでもいいくらいのものでしょう?つまり限界だらけで僕らは生きているわけで、
そんなにうまくいかないのが普通なんです。その普通がいいんだと思わなければ、
挫折感ばかり抱えて心を病んでしまう。

僕は一握りの成功者が「頑張れば夢はかなう」というのは傲慢だと思っています。
多くの人が前向きに生きるには、可能性のよき断念こそ必要ではないでしょうか。
(以下略。全文は日経ビジネスアソシエ 2/19号をお読み下さい)
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/backno/BA1127.html

痛いニュース より引用)

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1089459.html


スッキリと腑に落ちる話だったのだけれど、「痛いニュース」で取り上げられるほど、意外な反響を呼んだみたい。


・「へぇ〜!数少ない成功者が一般人に夢を見るなって、、、それはまた傲慢な御言葉ですね┐('〜`;)┌」

・「まあ夢が叶わなかった奴の大半は、努力を辞めた事が原因なんだけどな諦めてない内は、失敗じゃないのに」


こんな意見が出てくるのをみると、結構みんな誤読してるなぁ、という感じ。
これはつまり、「夢をあきらめるな!努力すれば夢は叶う!!」なんてセリフを無自覚に使ってしまう側、努力を強いる側に向けた批判の言葉なんだわ。もちろん、それを真に受けてしまう側にもチクリと痛いだろうけど。
「努力すれば夢は叶う」という言葉は、裏返すと(正しくは無いが)「夢が叶わなかったのは、努力が足りなかったせいだ」に繋がってしまう可能性を秘めているわけだよ。つまり、結果を基にプロセスを判断するという問題だ。
努力して努力して、しかし成し遂げられない人は幾らもいる。というか、その方が多いだろう。それに対して「努力が足りないよ」と片づけてしまう事が可能になる。現在の「成果主義」の風潮の中ではそうしているわけだが。
成功者の「努力すれば叶う」は、成功しない側の「努力しているのに」という言葉を封じ込める。時間を費やしている人間に対しては「コツが掴めていない」とか、「人と違う視点を持たないと」と、新たな「努力」のテーマを突き付ける事が出来るわけで、それが正しい場合があるにしても、失敗の責任を個人に帰せる便利なマジックワードだ。


その風潮の中では、個人も自分自身を「努力が足りなかった」と責めてしまう。そんな人に対して、さらに「頑張れ!夢を諦めるな。努力すれば夢は叶う!」なんて言葉は無責任じゃないか?少なくとも自分は他人にそう言いたくはない。


誰もが夢を叶える事が出来る訳じゃない。どんなに努力したとしても無理な事は幾らもある。だが、努力が自分を裏切らないことも確かだ。努力した後の自分は、努力する前の自分とはやはり違う。それは誇りにしていい。結果に左右されないものがちゃんとある。
努力するのは、たとえ結果が思わしくなくても、努力が足りなかった、なんて自分自身が悔いを残さないためだ。精一杯やってダメだとしても、その結果を受け入れる事が出来るように。そのうえで、次に踏み出していければいい。
だから、自分は他人に「頑張れ」とは言えない。ほとんど言ったことがない。そいつは、たぶん努力してきた筈だからね。言える言葉があるとすれば「頑張ったね。悔いなくやれたかい?」だ。


必要なことは、むしろ「夢のあきらめ方、見切り時の見極め方」なのかもしれない。そういうことを指摘できるのは凄いことだと思うよ。