コロナ時代の都市と都市文化
先日、興味深いコメントを頂いておりました。気づくのが遅れて申し訳ありません。
パンデミックと都市の関係に関しては到底私の手に余る問題ですし、それほど学ぶ間もありませんが、私見について述べるということでご了解ください。
まず、各地における感染状況は都市がコンパクトかどうか、はあまり関係がないようです。
アメリカに関してですが、初期はニューヨーク周辺の感染状況は酷いものでしたが、現在は到底コンパクトとは言い難い、カリフォルニア州やテキサス州でも爆発的な感染状況にあります。
感染者全米最多のカリフォルニアで、デジタル化・リモートワークが進展(米国)
米国カリフォルニア州の新型コロナウイルスの累計感染者数は、8月下旬時点で66万人に上る。全米の州で最多だ。経済活動の制限が続き、企業は厳しいビジネス環境下に置かれている。
https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2020/c9fa240add8304c7.html
米国の人口当たり感染者数、ジョージア・テキサス・フロリダが上位
(CNN) 米国の新型コロナウイルス感染者数を人口当たりで見た場合、ジョージア、テキサス、フロリダが上位3州を占めることが分かった。米南部と西部ではここ数週間、1日当たりの感染者数が減少に転じていたものの、依然として国内最多の水準にあることが浮き彫りになった。
https://www.cnn.co.jp/usa/35158417.html
ヨーロッパ各地も初期こそ感染状況が酷かったものの、現在は抑え込んでいます。
一見、都市の過密状況が感染に与える影響は大きそうですが、どちらかといえば、都市の規模によるように見えます。
東京、大阪、名古屋のような大都市は、到底コンパクトシティなどではありませんし*1、地方都市の問題とは異なる状況にあります。
私が述べている「コンパクトシティ」に関する話は、地方都市に関する話、地方都市が郊外化によって空洞化し、都市たり得なくなる、ことに対する警鐘なので、規模、という点ではあまり問題にならないように思います。
コンパクトな都市、であっても別に人がギューギュー詰め、というわけでなく、特に私が述べているのは、“クルマ(自家用車)を極力使わないで済む街”であり、それに対応した施策は感染拡大に繋がる、ということにはなりません。
むしろ、現在の感染対応策として、各国では都市からクルマを排除する動きが見えます。都市の屋外は充分な距離を空ければ人が安心して移動や滞在出来る空間になるのですが、クルマはその妨げになる、ということで、クルマを都市の道から排除し、徒歩や自転車に開放するのがトレンドになりつつあるようです。
新たな都市は(クルマではなく)自転車とバスと歩行者のためにつくられる #1
https://wired.jp/membership/2020/08/27/cities-without-cars1/
新たな都市は(クルマではなく)自転車とバスと歩行者のためにつくられる #2
https://wired.jp/membership/2020/08/28/cities-without-cars2/
この記事は、まるで私が書いたんじゃないか、というような記事ですが、ということで、コロナ対策とコンパクトシティは相反する、的な議論は当たっていないと考えています。
さて、前から気になっていることなのですが、今回のコロナ騒ぎで強く感じる違和感があります。
それは、東京から地方への移住、という話になると、なぜか地方というのは地方在住の人間でも住むのを躊躇うような過疎地、ということになるのは何故か?ということです。
人気番組「ポツンと一軒家」のイメージですよね。
ポツンと一軒家
https://www.asahi.co.jp/potsunto/
地方移住、というと「山と海が近く、自然豊かで人々が素朴で優しい、食材も滋味に溢れて美味しい、お金では買えない豊かさ」的なフレーズで語られる肯定論と、「雑草や虫、害獣との戦いに悩み、保守的で排他的な連中との付き合い方に苦しみ、食材ったって安くはないだろ」的な否定論を見かけるのですが、この論議からは「地方都市」(または、地方郊外)はスッポリと抜けています。
本当の地方移住の受け皿となるべき地方都市を地方自治体自身も軽視し、空洞化と郊外化を放置と言うか促進させているのが問題なのですけどね。
ちょっと例としてまたまた静岡市を取り上げてみます。
一応、静岡県の県庁所在地で、政令指定都市*2、人口は70万弱、ですが、実際は旧清水市を併せてなので、40万強の都市(旧静岡市)と30万弱の都市(旧清水市)という構成です。その両者とも、いわゆる「夜の街」もあれば、商店街、旧静岡市の中心市街にはデパートもまだ残っています*3。地方都市でデパート、それも伊勢丹、松坂屋、PARCO、マルイが残っていることは驚くべきことです。このことが奇跡的であることを大都市圏住民は判りませんし、当事者の静岡市も気づいていません。
https://www.isetan.mistore.jp/shizuoka.html
松坂屋静岡店
https://www.matsuzakaya.co.jp/shizuoka/
静岡マルイ
全国各地の地方都市中心市街からデパートが失われており、デパートが無い地方都市も珍しく無い状況であることを考えれば、静岡市はこれを守ることを検討しても良いのですが、積極的な方策を取ってはいません。ちなみに、旧清水市側は、デパートは撤退しました。他の地域と同じ状況にあります。
いわゆる都市生活に伴う雰囲気というか、状態。都市文化とでもいうべきもの。魅力的な地方都市にはまだそれが残っているところがあります。衰退が進む地方というのは、この、地方の中核となる都市、単なる住民居住地というのではなく都市文化を持つ地域、を失ったところが多いように思うのです。都市文化の重要性については、ジェーン・ジェイコブスの次の書籍がおススメです。
私は静岡県中部の郊外地に住んでいるのですが、静岡市の中心市街地、静岡の住民は“おまち”と呼びます*4 は何となしに出てくるところです。
週末、何となしにぶらついても何かしらのイベントがあり、イベントが無くても、店を廻ったり、喫茶店に入っても、映画を見ても、昼呑みしても、公園で昼寝してもよし、なのです。最近では若い人がお店を出すケースもボツボツあり、中にはクラフトビール製造に乗り出すところもあります。
AOI BREWING
もちろん、大都市圏に比ぶべくも無いレベルではありますが、それでもささやかな都市文化があるのです。
地方移住を考える人に知ってもらいたいのは、地方都市にもこうした都市文化があるよ、ということであり、その担い手を地方は欲している、ということです。
豊かな自然や田舎も地方都市の場合、アクセスは容易です。静岡市の場合、(駅から)南に5kmも行けば海、北に5kmも行けば山間地が見えてきます。地方都市のコンパクトさ(保たれていればですが)は、都市生活と村落的生活のアプローチを容易にします。
それこそが、大都市圏に質、量で劣る地方の優位性ではないかと思うのですが。
残念ですが、先日、静岡市中心市街の大型書店「戸田書店」が閉店しました。私も何度となく訪れ、そこそこ購入していた書店でした。ネットで書籍を買う事も出来ますが、やはり、沢山の書籍に囲まれた空間でなんとなく本を探す愉しみ、というのは得難いものです。静岡市からはそうした都市文化が一つ失われたわけで、他にも徐々に失われるものはあるでしょう。
「素敵」「心が洗われる」 閉店前の書店に置かれた1個の「檸檬」をめぐる交流に心が温まる (1/2)
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2008/16/news025.html
私の住んでいるところには都市文化はありません。クルマによる移動が普通になった地域では都市文化は消滅します。クルマによる移動は地域概念を破壊し、巨大ショッピングモールが消費の場として勝利します*5。ショッピングモールは企業により消費行動が管理されている場所であり、都市文化は無い。「ゾンビ」でショッピングモールが舞台なのは、それが”人間”の生活の営みでは無いことを示しています。
私がコンパクトシティについて述べるのは、危機に瀕している地方都市を守りたいからです。一旦、都市が空洞化し、単なる郊外の連なりに変われば、そこにあった都市文化は失われ、取り戻すのは容易ではありません。
日本の地方都市はどこも衰退の危機に瀕しています。なぜか地方自治体はそれを食い止めようとせず、むしろ衰退に拍車を掛ける政策を進めています。それが私が“自滅する地方”と呼んでいる理由なのですが、“まち”は単なる人口密度が高く人が多いだけの地域ではなく、まさに都市そのものである、ということに気付いてほしいと思います。
では。